★ ふとしたことからツイッターでこんな懐かしい写真を見つけて『リツイート』した。
山本寛さんという方のツイッターで、こんな自己紹介が載っている。
『乗り物』に関しては旧いオートバイが比較的得意分野です、とあって
『二輪文化を伝える会』の松島裕さんとも繋がっているようなので、最初のページまで全部見せて頂いた。
2016年11月16日からスタートしていて、懐かしい写真や動画がいっぱいである。
よくまあこんなにいっぱい貴重な写真を集められたものである。
ご関心のある方は、ぜひご覧になればいい。
その中からの写真のいろいろ、私なりの想いを綴ってみる。
カワサキが二輪の一貫工場を造ってオートバイの生産を始めたのは昭和35年のことである。
営業部門に単車課が出来たのは昭和36年12月で、私はその時点で営業の単車課に異動になったのである。その時生産していたのは50ccのモペットと125㏄のB7と共に、この井関の空水冷のモペットも生産していた。
こんなカラー広告もあるが、当時は神田岩本町にあった川崎明発工業の広告宣伝課が担当していたのだが、この年資本参加して、『カワサキ自動車販売』と名称が変わるのである。
社長は当時の川崎航空機の土崎専務が兼任し高野行彦専務の下小野田滋郎さんが総務と広告宣伝課長を務めていた。ちなみに小野田さんはあのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんである。
当時はまだ明石工場にヘリコプター部門があって、『航空機のエンジニアが造ったオートバイ』がウリだった。
逆に言うと。エンジンはプロだが、オートバイトータルを解っている人は少なかったのだと思う。そんなこともあって最初に造った125㏄のオートバイはフレームの欠陥で、返品が相次ぎ営業に行った私は出荷よりは返品によって当時の物品税の戻入手続きが主たる業務になったほどである。
こんな50ccのモペットは逆にデザイン賞なども頂いたのである。
ライラック などはいつまであったのだろう?
昭和20年代の後半までは、オートバイメーカーは100社を超していて、ライラックやトーハツや富士重のラビットなどを中心に三菱重工業なども二輪の世界にいたのだが、いつの間にか撤退して、昭和40年代の前半には、ホンダ・スズキ・ヤマハ・カワサキにブリジストンを加えた5社になってしまったのである。
こんなバイクのことをみんな『ラビット』と呼んでいた時代もあった。
三菱はなぜか「新三菱重工」と言っていたのだが、こんなスクーターを創っていた
富士スピードウエイが出来て、世界GPが開催されたのは、昭和41年度でカワサキは初めて世界GPに出場するのだが、ホンダは第1コーナーの須走落としが危険だからとの理由で出場を見送った年である。
私はMFJのレース運営委員会の委員を務めていたのだが、そこに出席していたのはホンダ・スズキ・ヤマハとカワサキとブリジストンの5社だけだった。 多分三菱などはまだ、バイクは造っていたのだろうが、レースには関係がなかったのだと思われる。
スズキも何故か『コレダ』と言ってた時代もあった。
80㏄の中間車種と言われたカテゴリーは、スズキが最初に出して、カワサキなどが90ccなどで追随したのである。
BSも中間車種を中心に、レースに熱心で速かったのである。そのレース部門を支えたのはかってのトーハツのメンバーたちだった。カワサキも当時モトクロス界ではF21M などでそれなりの成果を上げてはいたが、ロードレースではBSを目標に頑張ったのである。
千葉県の船橋に船橋サーキットが出来て、50・90などを中心のレースが盛んだった。この中心にいたのがBSだったかも知れない。カワサキも金谷秀夫や歳森康師などが出場していて、私も何度も現場に行ったので懐かしい。
その頃から、ホンダはダントツだった。
車種も多かったし、販売台数が群を抜いていた。
当時はオートバイ雑誌は『月間モーターサイクリスト』と『月間オートバイ誌』の2誌しかなくて、サイクリストがMCFAJ と言うレースのクラブ組織で先行し、オートバイ誌関係が MFJ を創って追随した時代だった。
そんなことで当時のレースライダーは『城北ライダース』や『スポーツライダース』『マウンテンライダース』『神戸木の実クラブ』などの各クラブ所属だったのである。
まだまだいっぱいあるので、ぜひ直接、山本寛さんのツイッターをご覧になればいい。
最後に野球をやってた私にとって懐かしい写真もあったので、・・・
昭和29年の甲子園球場の写真である。昭和20年代は兵庫県の夏の予選は甲子園と西宮球場で行われていて、甲子園球場で野球をすることは、そんなに特別のことではなかったのである。
特に私は昭和29年当時は大学のリーグ戦が甲子園球場で行われていたので、甲子園が生涯一番多くの試合をした球場になっている。当時は関西6大学と近畿6大学の2リーグしかなくて、関西6大学が西宮球場・近畿6大学が甲子園球場で行われていたのである。
少し後の法政二高の夏の大会の優勝は、柴田薫などもいてよく覚えている。