★ 12月8日というと私にとってはまず一番にこの日のことを思い出す。
1941年(昭和16年)12月8日、日本は開戦の詔勅によってイギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告し、最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を実施、日本とイギリス、アメリカとの間に戦争が発生したのである。
小学校3年生だった。 真珠湾攻撃も鮮烈であったし、開戦後マレ―シヤでの戦闘も大勝利して、翌年2月にはシンガポールを占領し、英国が降伏したのである。
最初はそんな出足だったのに、4年後の昭和20年8月15日には、日本は無条件降伏となるのである。
その頃、朝鮮の京城、今のソウルにいた私は、昭和20年12月8日に釜山から博多に病院船で引き揚げてきたのである。
中学校1年生の時だった。
この写真はもっと後の舞鶴港の写真だが、こんな感じだったのだと思う。
『12月8日』下関から明石までの車中で目にした広島などの爆撃の跡の廃墟は今でも目に焼き付いている。
戦前の明石も知っているのだが、ホントに何もない明石に変わっていた。
『12月8日』が来るたびにそんな日のことを思いだすのだが、70年以上も経った 2017年12月8日は、灘の酒心館でこんなメンバーの集まりがあったのである。
みんなカワサキの創世期の二輪事業を支えたメンバーたちである。
なぜ、突然12月8日の話になったのかと言うと、私の隣の田崎雅元さんも 小学校の頃は当時の京城にいて戦争が激しくなって満州に疎開した私と同じ引き揚げ者で、外地育ちなのである。
たまたま12月8日の話になり、こんなことを思いだしたのである。
ちなみに田崎さんは、引き揚げて来たのは満州からだったので、私よりは2年あとの昭和22年だったと言っていた。
いずれにしても、大変な時代を生きてきたのである。
周囲の環境の変化は、現代ではとても経験できないような激変の時代なのである。
そんな時代に育ったからだろうが、『環境の変化への適合性はずば抜けているな』と田崎さんは仰るのである。
確かに、『好奇心が強くて、少々のことには問題なく対応できる』ようになってしまったな、とその雑談は続いたのだが、
お互い80才の代になって、田崎さんは今年4年間も臥せていた病床から、奇跡的に戻ってきたのに全く以前と変わりないのはホントに不思議なのである。
昨日集まった 1941年(昭和16年)12月8日 をご存じの年代の人たちは、みんな白髪にはなってしまったが、今なおなかなか逞しくて、遠藤治一さんなどは、ごく最近『新しい企業』を立ち上げて、『サラリーマン社長』でない念願の『オーナ-社長』になれたと意気盛んだったのである。
今年は年初に『突然の田崎さんの復帰』から始まった1年だったが、来る年はどんな1年になるのだろうか?