★ 昨日は垂水の増田屋本店で、神武会の 明石地区の久しぶりの会合だった。
昭和32年、川崎航空機工業に入社した人たちの同期会である。
昭和32年、1957年は、それまでの不景気・就職難が一気に吹き飛んで、『神武景気』と言われた年だったので、それに因んで『神武会』と名付けられた。
昭和27年に、戦後の中断から事業再開された川崎航空機工業が、初めて大量の定期採用を取ったそんな年である。
大学卒だけで明石・岐阜・本社を合わせて30人ぐらいの採用ではなかったかと思う。
それから丁度60年も経つとメンバーも半減して、今回集まったのは明石地区では5人だったが、出てくる人たちは結構元気なのである。
こんなメンバーが集まった。
回転寿司ではない寿司を、久しぶりに食ったがやはり それなりに旨かった。
山邊 昂 さん、 オランダの部品会社や国内の西日本販売などの経営もやられてたので、ご存じの方も多いだろう。
旧制高校にも行かれてたので、私よりは2つほど年配なのだが、お元気である。
趣味で書かれている絵の年季も60年も経っているので、山邉画伯といっても大丈夫なほどのレベルなのである。
私は入社試験でたまたま隣の席だったので、私の書けない回答をいっぱい書いておられたので、 山邊さんには、私はずっと一目置いているのである。
その左、鈴木啓司さん、当時は珍しかった早稲田の文系と理科系を一緒にしたような学部を出て、入社後の配属も私の隣の管理部にいたので、その頃から親しく付き合った仲間である。
浜脇洋二さんが、二輪のアメリカ市場開拓されてたスタート時点では、同じ部門だったのでそのキャッチャー的な役割をしていた。
最近は絵も描いている才人である。
左手にいるのは、藤川哲二さん、個性が強くて部下にもビックリするような怒り方をする技術屋さんだが、私は結構ウマが合って、藤川さんに一番ズケズケ言ってるのは、私かも知れない。
カワサキのジェットスキーや、スノーモービルは、彼の作だと言っていい。
稲村暁一さんや大前太さんなどと言うカワサキ二輪の有名人たちが藤川さんの府大の後輩なので、藤川さんに掛るとボロカスに言われたりする。
私は、ジェットスキーをカワサキ本来の事業にすべく、ジェットスキーを明石工場で唯一乗ることができた福井昇くんを発動機から貰い受けに行ったのだが、たまたま藤川さんの部下だったので、気分よく出してくれたのである。そういう意味では、ジェットスキーの産みと育ての親だと言ってもいい藤川さんなのである。
Facebook も登録だけはしているので、このように書いておくと読むだけは読んでくれるので、私のホンネのお礼と思って欲しい。
一番奥に座っているのが安川美樹さん、今回の会合の監事役である。
安川さんが、こんなにマメだとは思わなかった。 化繊機械部門の技術屋さんなので仕事の上では殆ど関係がなかったのだが、入社してすぐ、スイスのどこかの社に海外出向して、びっくりした。
いまと違って、海外に日本人が出掛けるなど考えられない頃である。
多分優秀だったのだろうと思っていたが、同期で一番の成績だったとか、山邉か鈴木が言っていた。 さもありなんと思うような出来事だったのである。
★ 昔話はなかなか楽しい。
当時の川崎航空機工業の社風が自由闊達で最高だったのである。
歴史のある川崎重工業の『重たさ』とは一風変わった良さなのである。
そんな社風から生まれた二輪車・ジェットスキー・ロボットなどが、結構今の川崎重工業を支えているのである。
こんな動画に纏めてみた。
https://www.youtube.com/watch?v=I8zwLKsDrw0
その動画の中から切り取った画面である。
最後の『神武会』などにならぬように、皆さんまだまだ頑張って欲しいと思っている。
ちょっと余分の話だが、
三木から車で行ったのだが、大体の場所は解ってはいたのだが、『カーナビ』を使ったのがイケなかった。
知らない道を走ってて、『右折』というので右折したら、方向はあっていたのだが、淡路大橋に行く高速道路に入ってしまって降りられないのである。 淡路大橋を往復したのだが、高速道路は流石に速くて、12時の集合に3分遅れただけで、到着した。
『カーナビ』も注意しないといけない。