★昨年も8月15日にこんなブログをアップしている。
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戦後72年も経った。その時私は12歳、中学校1年生だった。
1941年(昭和16年)12月8日に突如始まった大東亜戦争、これは私にとって何だったのだろう?
そして1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送を中学校の校庭で不動の姿勢で聞いて戦争は終わった。
戦争が始まっても、1年目は日本が圧倒的に勝ち続けた。それ以前と同じように私は夏・冬明石に戻っていたが、確か3年目にアメリカの潜水艦が出没するようになって、『内地への帰省』は無くなったが、戦時中朝鮮京城での生活は何の問題もなく、食料事情などもよくて、空襲も爆撃もなく何の問題もなかったのだが、1945年(昭和20年)になって日本国内は空襲に会い、明石の実家も母型の岡山の家も消失してしまって、明石では叔父・叔母を空襲でなくしている。
そんな所謂「戦時中」を過ごしたのが、朝鮮京城府城東区新堂町桜ケ丘で、通った小学校は桜ケ丘国民学校、ほんの数か月だが城東中学校に通ったのである。
そして、その年の12月8日、京城から釜山までは貨物列車で、そして博多まで大きな連絡船で引き揚げてきたのである。
私の戦争体験は、むしろ戦後の引き上げ後の一変した生活から始まったと言っていい。
戦時中の朝鮮京城での思い出は、『いい思いで』ばかりで苦しいことなど一つもなかったのである。
今でも私の故郷は『朝鮮京城』だと思っているのだが、ご縁があってソウル五輪のあった年、その開会式の日にオリンピック委員会から Jet Skiのデモンストレーションを依頼されてソウルを訪れる機会があり、懐かしい小学校と、かっての自宅を見つけて写真を撮ってきたのである。
その時、一緒に行っていただいたのが、当時のJJSBAの会長だった苧野豊秋さんだったのである。
これも忘れられないソウル・オリンピックの想い出なのである。
★そんな朝鮮京城・ソウルの想い出もあるのだが、私の終戦後の一変した生活は父母にとっては確かに『大変な』ものであったことは違いないのだが、私にとってはむしろ『非常にオモシロい新しい体験・新しい世界』だったのである。
それが『良かったかどうか』は神のみぞ知るの世界で、若し「戦争がなかったら」私の人生は全く違ったものになっただろう。
カワサキにも会えなかったし、今の家内にも勿論会えていない。今の子供たちも、孫たちも勿論、存在しないのである。
私自身が、ちょっと普通ではないのかも知れぬが、『人生で不幸を感じたことが一度もない』ように思う。
もう一度、人生をやり直すなら『今まで生きた人生』をもう一度やってみたいと、本当にそう思うのである。
そう言う意味では、あの『大東亜戦争』は私に『幸せ』を与えてくれたような気もするのである。
朝鮮京城の時代も、戦後の食糧難も、学生時代も、カワサキの生活も、そして定年後の生活も、みんな楽しく想い出いっぱいの人生だったし、今からもひょっとしたら「もっといいこと」がいっぱいあるかも知れないと思いながら、戦後72年を迎えた終戦の日にこんなブログをアップしているのである。