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カワサキの二輪事業と私 その58 昭和62年(1987)

★昭和62年(1987)は、地価の異常高騰、銀座で1坪1億円を突破などの記事もあるが、俳優・石原裕次郎が死去とある。石原裕次郎、私より一つ下、こんなに早く亡くなっていたのだ。

この6年間カワサキの二輪事業の再建の中枢であった企画室に籍を置いて、一筋に『カワサキ単車の再建を』願ってやってきた6年だった。それがいろんな方たちの協働で実現し、この年には新しく単車と発動機が合併して、高橋鐵郎本部長のCP事業本部がスタートしたのである。

CPとは、Consumer Product 末端消費者向けの商品を造る事業部という意味で名付けられたのである。

 

この年のことを振り返って、田崎雅元さんはこんなメッセージを寄せてくれた。

1987年3月に帰国した私は、4月1日付で、2度目の単発合併後のCP事業本部企画室副室長に就任している。企画室長は、柏木さんだった。二人で今度は失敗しないように、充分に話し合いをしながら、お互いの悪口は言わない、という方針で行こう、という事にした。

 元々単車は、発動機の中にあってメイハツ工業にエンジンを提供していたのがそのスタートなのだが、1960年代に単車事業部として分離独立し、1970年代に一度発動機事業本部として統合されているのだが、その時点でも既に単車事業のほうの規模が大きくなっていて、何となくぎくしゃくしたこともあったので、田崎さんはその時のことを反省してこのように、発動機から来られた柏木さんと話されたのだと思う。

私自身は、企画から営業総括部の担当に異動して、この年からはいろんな実務展開を担当することになるのである。

まずアメリカKMCについては、百合草新社長体制となっているのだが、順調に推移してこの年で大目標としていた『38百万ドルの累損の消去』も目途が立って、国内カワ販から逆出向していた富永・日野君も8月には帰任することになるのである。

ヨーロッパ・国内については二輪車というよりも、新事業のジェットスキービジネスの新しい仕組みの構築が一番大きな課題であったのである。

ジェットスキーはもともと、発動機のエンジンをアメリカに送り、リンカーン工場で組み立てて、KMCで販売するという事業であったために、明石の単車事業部は一切関係がないというちょっと異質な形になっていて、KMCの経営悪化の一因となったスノーモービルも同じ形態であったため、ジェットスキーを事業本部の本来のビジネスとすべく、数年前から鶴谷将俊さんがJS担当として、企画室内でいろいろとやっていたのだが、この新職制で初めて営業総括部内に『ジェットスキー部門』が出来て、鶴谷課長も一緒に異動してきたのである。

そしてこの年国内市場では、レース協会JJSBAの充実強化と共に、ジェットスキー専門販売網を創るという方針でスタートするのである。

この販売網の専門店政策は、当時ボート屋さんで年間200台ぐらいしか売れていない国内市場で『果たして専門店が成り立つのか?』という疑問もあったのだが、JSはボートとは全く違うレースが中心の商品だからボート屋とは違った専門店を創らないと成功しないと信じて、3月には神戸にJSプラザを直営のような形でスタートさせ、6月には福井昇くんが明石に実質第1号店をスタートさせるのである。

ちなみに、神戸の店はカワサキOBの吉田純一さんに店を貸して貰ってのスタートだったのだが、大きくて見栄えもよかたので、その後に続く専門店網もスムースに出来たのだと思っている。数年後には国内で7000台を売るまでになるのである。

 ヨーロッパについては、オランダにJS専門販売会社 Kawasaki Jet Sky Europe をスタートさせたし、アシックスと提携してジェットスキー専門シューズの開発を図るなど、Jet Sky ビジネスの専門化・本格化をめざしたのである。

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★営業総括部門は、結構順調に推移したのだが、企画部門はいろいろとあったようである。

この年あったという田崎さんがメールしてくれたこんな話も、全くの初耳なのである。

 当分は、順調に進むと思っていたら、6月に入って間もなく、厄介な問題が出てきた。本社技術研究所の所長で副社長の中村さんの一人一件の新事業を!の掛け声で生まれた、ホバークラフトをCPの製品に加えろ、と言って400CCのエンジンを搭載した一人乗りの試作品を造り、評価を求められた。騒音と操縦の不安定で、アメリカのP/L対応は難しく、マーケットも限られている、とネガティブな対応をした。中村さんは、高橋さんに、「これは君と僕との職を賭けた戦いだ!」「CPがやらないのなら、日商にやらせる!」などと激昂した。高橋さんも、手を焼いていたが、アメリカのリーガル部門、販売部門の意見も取り寄せ、抵抗しているうちに、何時しか立ち消えになった。

 大庭本部長の時代から、明石の技研とは密接に繋がっていたから、こんな話も持ち込まれたのだと思うが、全然私の耳には入っていないのである。

 

 

7月13日には直入町の岩井町長が来社して、二松荘で接待した。毎年のように、工場建設と雇用問題の契約不履行の補償金の話だった。来社して、工場建設と雇用問題の契約不履行の補償金の話だったと思う。

 

こんなことも書かれているが、直入町のテストコース問題は、旧く昭和49年(1974)にテストコース用地として購入し、農業振興地域の指定解除の条件として、雇用規模200名などが契約で義務付けられていたのだが、その後事業本部の経営状況はとてもテストコースなど建設できる状況ではなく、直入町と契約した諸条件が不履行になっていて、直入町長以下が年に何度も来社してムツカシイ交渉がずっと続いていたのである。

私の企画室時代は、具体的な案件が大分工場の人員雇用問題だったので、この担当は生産関連部門だったのだが、発動機との合併で組織変更があって、企画担当になったのだと思う。

この対応は大変だったのだが、翌年ひょんなことから、SPA直入の建設と、ジェットスキーゲレンデを創ることを私が提案して、営業部が担当することになるのだが、トントン拍子に話は進んで、『直入問題』は解決するのだが、その話は83年度に譲ることにする。

 

10月30日には、クライスラーの一行を川崎山荘で接待し、翌日に明石工場での視察、会議を行った。

クライスラーとの提携話は、前年から話があって第1回の明石訪問があったのだが、その時はまだ企画だったので会議にも出席している。大事な話だからと『同時通訳のできる女性』を高額だが雇ったのだが、英語での大事な話は少々高くてもこのような専門通訳を雇うべきだとその時、そう思った。この年の会議の写真の女性も多分『同時通訳の方』だと思う。

 

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  工場もカワサキの4輪もご覧になってるようである。

 

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 このクライスラーとの小型スポーツ4輪話は、KMCの百合草社長が直接担当されていたのだが、実現しなかったのは、両社にとって本当に残念なことだった。

実現しなかった理由は、クラスラ―社内のホントにトップ、アイアコッカ会長とこのプロジェクト推進者であったスパーリック社長の間の何かの行き違いみたいなものだったようである。

 

★こんな CP事業本部スタートの1年目で、いろいろあったが田崎さんも私も、この年の12月末に理事昇格と言われて、退職金を頂くことになったのである。

 一応川崎重工業の従業員としては、一つ目の区切りになった年でもあったのである。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

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