★昭和61年(1986)4月20日 マラソンの瀬古利彦選手(エスビー食品)がロンドンマラソンで初優勝の記述もあるが、あまり大した出来事もなかった年のようである。
カワサキとしては、アメリカのKMCの新社屋が完成し、カワサキの長いアメリカでの歴史の中で、最も華やかに輝いた年だと言っていい。
旧く1965年にサービス担当者として、明石工場からの第1号派遣者としてアメリカに渡った田崎雅元さんが、翌66年に、部品会社AKMを5万ドルで立ち上げたのがKMCの前身でありそのスタートであるのだが、それから丁度20年の歳月を経て、カワサキ二輪事業再建のために来られた大庭本部長3年目に新しく新社屋の落成を見たことは、ホントに象徴的な出来事だったのである。
これはカワサキの二輪事業だけでなく、無配に陥っていた川崎重工業にとっても、二輪車の主力市場アメリカKMCの再建は大事業だったので、その『開所式』並びにKMCの『20周年記念』には、川崎重工業の長谷川社長も出席されて、自ら鏡割りをなさっているのある。
AKMにも関係した田崎さんは、そんな縁の持ち主かも知れない。
その田崎さんが私に送ってくれた写真なのである。
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まだこの時は、田崎さんも川重の『部長職』なのだが、
長谷川社長ー大庭社長ー田崎社長と このあと川崎重工業の社長も務められた3人の記念すべき写真なのである。
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大庭さん、高橋さんも、アメリカ人達も、みんな笑顔いっぱいである。
★ カワサキの二輪事業の長い歴史の中で、1981年から3年間が一番苦しかった時代であった。
83年7月からは大庭浩さんが再建屋として単車事業本部長として旗を振られて、実質3年間で見事単車事業再建を果たされ、86年からは高橋鐵郎本部長となり『新しいカワサキ』の時代となるのである。
この6年間その中堅として支えたのが私と田崎さんだし、後半の3年間は百合草三佐雄さんが次期kMC社長として参画されるのだが、この時期の対策は、主として本社財務が絡んだ資金対策など財務対策が中心であったことから、この間の事情をご存じの人はホントに少ないのに、『鐵郎さんと宏さん』 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/e8e92c4fe9f4335e70411c0ee1b0188d という両高橋さんも逝かれてしまって、限られてしまっているのである。
明石の企画を担当した私とアメリカKMCを担当した田崎さんとのコンビを中心に、本社財務の方たちが協働して頂いて、文字通り川崎重工業の総力を挙げての対策だったと言えるし、『成功への道の6年間』だったと言えるのである。
この6年間を改めてざっと振り返ってみる。
●1981
この年8月に高橋鐵郎・田崎雅元コンビがアメリカに渡って、種々対策が始まったが、この年のKMCは大赤字で、事業部も赤字、それが川重本社の経営にも影響して、本社財務部門がその対策に乗り出したのだが、KMCの赤字は止まらなかったのである。
●1982
この年4月にKMC再建委員会が本社財務・経理メンバーを中心に形成され、その総責任者には単車出身の山田熙明専務が当たれることになる。7月に山田専務から私に『KMCは立ち直ると思うか』と聞かれて『大丈夫です』と答えたものだから『企画に戻れ』と、カワ販常務を兼務のまま10月からは企画部長になり、高橋鐵郎さんに企画室長に戻って頂いて、具体的対策がスタートするのである。
●1983
10月からの3ヶ月で海外販社の事業計画を明石企画主導で立案することとし、83年度事業計画はKMCをはじめ、全販社黒字計画を組み上げたのである。企画室内に関連事業課を創り、KMCと本社財務を繋ぎ、本社からは小川優さんや松岡京平さんが事業部に異動して援けてくれた。7月からは大庭浩本部長体制となるのだが、大きな対策方針の方向は山田専務が創られていて、その旗振りを強力におやりになったのである。
●1984
この時点で企画部長として私が建てた目標は、KMCの『累損38百万ドルの消去』という大きな目標を立てたのである。この目標は『田崎・百合草KMC社長時代』に達成できるのだが、この年度がその消去1年目となるのである。同時に、人員整理や経費削減などの対策ばかりではと田崎さんと秘かに話していたのが、4か所に散らばっている事務所の統合計画だったのである。
●1985
この新社屋話は、85年1月からスタートし、秋には川重本社の承認もとれるのだが、『累損のある販社が新社屋??』などと言う監査役などからの当然の指摘も一時はあったのだが、それが『前向き』に進んだのは財務でKMCを直接ご指導いただ松本新さんなどのご理解があったからである。そういう意味でも、この時代の単車再建は文字通り『全社の総力』を挙げてのものだったのである。そしてこの年から、次期KMC社長候補として百合草三佐雄さんがKMCに出向することになるのである。
●1986
そしてこの年、昭和61年(1986)には、7月からは髙橋鐵郎本部長となり、大庭本部長は副社長で川重本社に復帰され、私自身も企画室長に昇格するのだが、10月には百合草KMC社長体制となりこ、アレだけひどかったカワサキの二輪事業の再建の目途は立ち、発動機を吸収合併した新しい時代に入っていくのである。
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この年6月の 開所式兼KMC20周年記念 の鏡割りの酒樽を 四輪バギィ車 で運んでいる田崎さんはこのようにこのプロジェクトについてこのように振り返っている。
1983年の終わり頃になると、次の課題は、電算センター、R&Dセンター、西部支社兼部品センターと本社の4か所に分散されている機能の集約、新本社ビルの建設であった。
本件は、古谷さんとは内々に話し合っていた。1月早々に、とても良い土地が見つかったというのですぐ下見をした。素晴らしい環境で、一目で惚れ込んだ。この新しい土地は、当時保有していた土地社屋と、おおむね等価交換できるものだったので、こんなチャンスを見逃してはならないと、KHIには事後承認をとることにして、すぐ手付をうった。新社屋が完成したのは、1986年の4月である。
1985年5月の地鎮祭、1986年4月の竣工と移転、6月のKMC20周年記念を兼ねた開所式(Grand Opening)と順調に進み、現地の新聞にも地鎮祭(Ground Breaking)と紹介された。新社屋の完成は、古谷さんを含め、多くの人達に支えられたKMC再建の大きな区切りとなった。
1981年8月に45歳の新米部長で就任したKMC社長の私も、すでに51才、大庭本部長に「田﨑君、本当によかったな!奥さんもさぞ喜んでいるだろう」と言われ、何となく帰国の日も近いかな? と感じていた。
と書かれている。
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次のKMCの社長の百合草三佐雄さんには、『KMCの累損消去』を重々お願いし、その達成までカワ販から出向していた『富永・日野』くんにも頑張るよに頼んだのである。この目標は88年に見事成就して、神戸で大西・山田副社長以下 本社と単車事業部の当時の関係者 が集まって祝杯を上げたのを思いだすのである。
この年の6月初旬には、KMCの百合草さんが、クライスラーとのスポーツ4輪車の話を持ち込んで、クライスラーのメンバーたちが第1回の明石工場訪問があったりしたのである。
百合草さんは新しいことには『前向き』で、私は何となくトーンがあって、レースでも、ジェットスキーの開発でも、 KMCの累損消去でも、短期間ではあったが、いろいろ手伝って貰ったのである。今、アメリカのKMCの中心商品である『4輪車』もこの時期の『ポニープロジェクト』がそのスタートで、その推進をしていたのが『百合ちゃん』なのである。
KMCから戻られた後は、本来やりたかった『航空機の世界』ジェット・エンジン部門を担当されたのだが、その時期にもよく一緒にゴルフなどしていて、今でも Z1会で年4回ご一緒していたりするのである。
★ このようなKMC体制の動きがあった年なのだが、そのほかにも色々と新しい時代に向かっての動きが始まった年である。
なによりも、大庭浩本部長が副社長として本社に戻られ、この年の12月末の経営会議では翌年7月からの川重社長昇格も決まり、山田副社長の退任も決まって、髙橋鐵郎単車事業部本部長が実現した、本当に新しい区切りの年となったのである。
従来アメリカだけでの販売であったジェットスキーは鶴谷将俊さんが担当して、ヨーロッパの新会社の設立、国内ではレース組織のJJSBAがスタートして苧野豊秋初代会長が実現した。1月にはヤマハがこの業界に参入されるということで小宮常務が明石まで挨拶に来られるなどの動きがあった。
販売会社の経営は全世界が順調に進んだのだが、明石の事業部の損益は急激かつ大幅な円高でその対策は大変だったのである。春先170円台まで進み、5月初旬には161~162円を記録していて、『コストのドル化』対策などが検討されているのである。
そんな時代の新しい構造対策として単車・発動機の合併も検討されたし、殆どの方がご存じないと思うが、製造部門の子会社化計画が当時の大西副社長のところまで上がっていてほぼ承認の方向だったのである。
なによりも、大庭浩本部長が副社長として本社に戻られ、この年の12月末の経営会議では翌年7月からの川重社長昇格も決まり、山田副社長の退任も決まって、本当に新しい区切りの年となったのである。
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★その大庭本部長が明石に来られてから実質3年間、企画部長・企画室長という番頭役として、殆ど毎日事細かい指示も頂いたし、それに対する率直な提言など申し上げてきたのだが、私が現役で40年間務めた中で、『最も私の意見』を取り上げて頂いた上司は『大庭浩さん』なのである。
『大庭さんは怖い』という印象が一般的にはあるのだが、全く経験のない民需大量生産販売の『単車事業』に来られて、『まず単車の世界』を気に入って頂いたし、『ズケズケ下がモノを言う』単車事業部も『大いに気に入って』頂いたのである。
7月に単車に来られて、2か月後の9月には、川重本社の会議で『単車は思ったより確りしている。将来川重の柱になる事業になるだろう』と発言されていて、社長になられてからは高橋鐵郎副社長の登用・田崎社長の登用など、川崎重工業の重工業体質の中に、民需・量産事業のノウハウなど取り込まれた功績は大きいと思うのである。
単車事業部だけでなく、川崎重工業の中に、『単車独特の知恵』が注入されるというそんな年だったと思っている。
最後に、田崎さんが86年には、こんなこともあったという話をメールしてくれているので・・
1986年、独禁法違反の容疑で米国司法省の調査が入り、1982年、1983年の手帳などを差し押さえられた。7月にはオハイオ州で23人の陪審員による大陪審(Grand Jury Testimony)が行われ、野田、冨永、田﨑が喚問された。日本4社の戦争終結のプロセスに疑義あり、というのである。
日本のマスコミ報道が引き金になったようだ。現地日本4社の幹部が召喚され、私が最後の1人になった。誰がどういう話をしたのか全く知らされず(情報交換は厳しく禁止)、話の食い違いによる偽証罪のリスクを抱えての登壇になった。
受けた質問、回答のエピソードとしては、
1)業界紙主催の業界のパーティの席上、Y社の社長がH社の社長にたいし「Unconditional Surrender(無条件降伏)」と発言したというのは本当か?
2)貴方はY社 社長の表敬訪問を受け彼の話に頷いていた(Nodded)という証言があるが、何を同意したのか!
1)については、Surrender という言葉はあったように思うが Unconditional と言ったかどうかはわからない。
2)については、日本人の癖で、例え同意しなくても、聞こえていますよ、という意味で頷くことはよくある事だ。などと証言しながら、陪審員達を味方にするようにつとめた。
米国の商習慣にくらべて日本の業界の慣習は、疑われてもしようがないところがあるのだが、状況証拠ばかりで確たる証拠が出なかったという事で本件は無罪放免となった。 弁護士からはKHIのVIPは、この期間米国にこないほうが良い、過去に入管で捕まり喚問された日本人VIPもいた、などと警告を受けていてまさかとは思ったが少々困惑しながらKHIにリスクを連絡した。
さて、1986年10月にKMC社長職を百合草さんにバトンタッチ、私は会長になった。そして翌1987年3月に帰国し、2度目の単発合併後の、CP事業本部企画室副室長に就任した。1981年8月から 5年8か月にわたる2度目の駐米生活であった。
確かに、そんなことがあってこの問題が片付くまで、アメリカ出張を抑えていた時期があったのだが、それがこの年だったのである。
★懐かしい想い出いっぱいのアメリカKMCだしその社屋だが、最後に行ったのは数年前のZ1の40周年の時、寺西社長時代である。
今は、新しいところに移転している。 その時のKMCでの写真を幾つか。
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★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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