★『宏さん、亡くなってしまいましたね。 いろいろ聞きたい事もたくさんあったのに、残念です。寂しくなりました。ところで、宏さんが、KMCに出向したのは、何時ですか。また山田晴二さんがKMCの社長になって、浜脇さんが帰国して、明石で幹部を集めて、変わった挨拶をしたのは何時だったですかね。 何かマナーが悪いと言われたので、後のハーフは皆さんと一緒に回る、というようなスピーチだったと思います。』
『ダンピングの調査資料を、アメリカ大使館から受け取ったのは、1977年7月、これは国内の販売費用と深くかかわっていると、宏さんとカワ販の田中社長に説明し、カワ販を無くさなければならなくなるかも、と云ったのが、11月1日で 翌2日も続けて会議している。田中社長の言葉は、「泣く子と地頭には勝てないという事だな」であった。その後、カワ販定期入社組の猛反発もあり、貴方の出番となった。確かに当時のカワ販は、OBを沢山抱え、KHIからの輸出マージンがあったり、健全とはいえなかった。』
どちらも、昨日田崎雅元さんから、頂いたメールの一部である。
最近、田崎さんとこんなやり取りが毎日続いている。
田崎さんとは、何度も密接に繋がって、いろんなことを一緒にやっているのだが、この二つのメールの頃は、1975年から79年ぐらいの間のことで、田崎さんも私も当時の発動機事業部の企画室にいたころから、発動機事業本部の中に単車事業部が出来て高橋鐵郎さんが事業部長になられたころの話なのである。
『宏さん』と田崎さんが書いてるのは「高橋宏」さんのことで、当時の企画部長、私も田崎さんもその下にいたのである。部員制で課はなかったが、古谷・田崎のほかに田付・種子島・武本・森田・岩崎・佐藤・繁治などなど、その後のカワサキを支えた人たちがいっぱいいて、その大将が『宏さん』だったのである。
当時の技術本部長が高橋鐵郎さんで、『高橋さん』というと紛らわしいので『鐵郎さん宏さん』と呼んでいたのである。
このころの私のちょっと上の先輩たちは、私も旧制中学なのだが、旧制高校の方もいるし陸士や海兵からもう一度大学に入った方もいるし、年次とお年がよく解らなかったのだが、『鐵郎さん』は海兵からだし、『宏さん』も旧制高校だったし、濱脇さんも大槻さんも旧制高校から大学で、昨日『宏さんの訃報』を頂いて87歳だったことが解ったような次第なのである。
故郷の出雲に戻られて天寿を全うされた『宏さん』である。お世話になりました。こころからご冥福を祈ります。
★この昭和50年(1975)からの数年はカワサキの激動期で、その真ん中におられたのが『鐵郎さんと宏さん』でそれを支えていたのが『私と田崎さん』だったと言えるのだろう。
ちょっと時系列に並べてみると
● 昭和50年10月(1975)に私は企画室にカワ販の10年間の出向から帰任した。『宏さん』が企画部長、企画室長は本社から来られた堀川運平さんだった。塚本本部長・青野副本部長の時代である。吉田専務が『小型プロジェクト』の旗を振られていた。
● 私が起案した『開発途上国の小型車CKD対策』として『市場開発プロジェクト室』が出来てその長には『鐵郎さん』が座られた。『鐵郎さんと宏さん』が話し合われて私は『鐵郎さん』のほうに異動することになった。昭和51年11月(1976)のことである。
● この『市場開発プロジェクト室』には、技術屋さんとしては藤浦さんや、佐伯さんもいたのだが、どんどん順調に拡大してヨーロッパ営業もその中に入り『鐵郎さん』は営業本部長になられるのだが、さらに昭和53年4月(1978)には発動機事業本部の中に『単車事業部』が出来て『鐵郎さん』はその事業部長になられるのである。その管理部部長も兼務されたが管理部員は『古谷・田崎・野田・坪井』という課長メンバーでまた田崎さんと一緒になったのである。
●この昭和53年4月(1978)には、この当時の事業本部の一応の対策も終わって、堀川運平企画室長は本社に戻られ、10年アメリカのKMCを担当された浜脇洋二さんも川重本社に、大槻幸雄さんはガスタービンをおやりになるためにジェットにそれぞれ異動されて、KMCは発動機出身の山田晴二社長に『宏さん』はそれを支える副社長で出向されることになるのである。
● その間、突如勃発したのが『ハーレーダンピング』で、それを田崎さんが担当していたのだが、『ダンピングの調査資料を、アメリカ大使館から受け取ったのは、1977年7月』と田崎さんの昨日のメールに書いてあって、そのスタートの日付が正確に解ったのは昨日が初めてなのである。 これが昭和52年(1977)のことで『カワ販を無くさなければならなくなるかも』と言ってるように、これは大変なことだったのである。
● その後、この問題はいろいろあったのだが、10年間もカワ販に出向していて田中社長の下にいた古谷にこの対策をさせるのは気の毒とこれは多分『宏さんの配慮』で除外して頂いていたのだが、なかなか具体案が出来ずに、最後に私にお鉢が回ってきたのである。その指示を直接塚本本部長から言われたのは昭和53年10月(1978)のことで、対策案を創るだけかと思っていたら、昭和54年度(1979)からは、私自身が『カワ販常務』に指名されて国内担当となり『鐵郎さん』はその副社長として支えて頂いたのである。
★この『ハーレーダンピング』でカワサキは揺れたのだが、続いて『HY戦争』がアメリカ市場に飛び火して、当時の事業を支えていたKMCの経営がおかしなことになり、『鐵郎さん田崎さん』コンビでアメリカに渡ることになるのだが、これから先は、事業部というより川崎重工業本体の経営を揺さぶることになり、その対策を担当した中枢は、むしろ本社財務のメンバーたちになってゆくのである。
この時代のことは、ほんの数人の人しか解っていないし『語れない』のである。
その数少ない『鐵郎さん宏さん』が逝ってしまわれた今は、事業部出身で解っているのは『私と田崎さん』くらいになってしまったのである。
田崎さんのメールにある『カワ販定期入社組の猛反発もあり』というのは、田崎・野田・古谷でカワ販の第1期、2期の定期採用の富永・山田君に意見を聞いた時、田崎さんの九大の後輩二人、特に山田君が『自分の墓は掘れません』と俄然反発したことを言っているのだと思う。
そんなカワ販のいろんな事情、特にカワ販独特の メイハツ・メグロ・旧代理店従業員・カワ販定期採用・川重からの出向者という複雑な人たちが集まった『カワ販』の事情の理解者としては、その『カワ販』に10年出向していた私が適任だったのかも知れないのである。
★この10年間が、カワサキの二輪事業にとっても、田崎さんと私にとっても、激動の10年間で、この危機を乗り越えたから、『今のカワサキがある』と言って間違いないのだが、この間の事情をご存じの方が、どんどんおられなくなってしまうのである。
いつか『カワサキ』が社史でも作るようなことがあれば、それを語れる人がどんどん少なくなってゆくので、その事実を誰かが語っていかないといけないと、昨今は田崎さんも何となく、そんな想いをお持ちのようなのである。
メールでこんなことも書いてきている。
私は、1958年入社、ジェットエンジンオーバーホール工場の品質管理担当で、神武事業部長は九大の大先輩、苧野さん、桑畑さん、田村さん高橋さん、中村さんも一緒だった。神武さんが単車事業部に移籍してから、次々とジェットの人が単車に移り、私は1962年の夏に、一度は、発動機のディーゼルエンジン部門に移籍し、中村さんが話が違うと、人事の森さんにねじこみ、夏のボーナスを貰っただけで、単車工作部に移籍になった。この年に結婚したのだが、来賓が「前途有望な航空機エンジニア」と持ち上げた直後の、単車移籍となり、家内は「何か悪い事でもしたのか?」といった。すぐにバイク屋の女房にせねば、と会社のB8を借りて、後ろに乗せてツーリングを楽しんだ。
暫くすると、発動機の機械職場を編入することになり、組長どうしの融和調整にはいろいろと手こずった。メカニックを連れて レースのお手伝いをしたのは、この頃のことである。
そして1965年には、高橋さんから、身体は大丈夫か、とアメリカ行きを指示された。だから生産中のB8やJ1のエンジンは毎日の様に扱い細部まで良く知っていて、カットエンジンなどを造って、教育担当の種子島さんの生徒(養成工)の面倒も良く見たのである。
田村さんは大分後から参加してきたが、後から出るほど重要な人材なのだ、といっていた。神武さんというトップが移籍したのだから、重要な人材から順に、引き抜かれたのでは?などと、からかった。彼は販売店に行ってサービスを勉強し、整備士の資格をとったり、下手だったライディングも怪我をしながら猛訓練したり、先輩には失礼な表現だが「口は悪いが頼りになる」ナイスガイであった。
後に、米空軍ジェットエンジンシステムの経験者、『田村技術サービス、田﨑部品補給』でサービス体制が整えられていった。
カワサキの単車のスタートは、事務屋は当時の本社から、技術屋はジェットエンジン部門から有能な人材が集まってきた。とりわけ生産・品質管理や部品システムは、アメリカ空軍のジェットエンジンの品質管理システムや、IBMシステムが持ち込まれて、当時の日本の一般の管理システムとは10年程の開きがあったと言っていい。
川崎航空機の同じ会社で発動機から分離した単車だが、いろんなシステムで、単車は常に発動機をリードしていたのは、『ジェットのシステム』の影響が大きかったのは私も認めるものである。
田崎さんの話に出る田村一郎さんは、カワサキの名物男だが、田村さんが品証に来られた時、新しい取扱説明書などの製作費が膨大だったのだが、それを広告宣伝費から都合して差し上げたりしたのである。
そんな時代の 山田熙明さんも、苧野豊秋さんも、小野田滋郎さんも、中村治道さんも、安藤佶郎さんも、両高橋の鐵郎さんも、宏さんまで、昔のカワサキを語れる人がどんどん少なくなってしまうのは、本当に寂しいことなのである。