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American Kawasaki Mortorcycle Corporation

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★このところ、毎日、田崎雅元さんとメールのやり取りをやっていて、沢山の写真を送ってくれている。

田崎さん、川崎重工業の社長もしたエライサンだが、私にとっては若い頃から退職するまで一緒に仕事をした『いろんな想い出を共有する仲間』なのである。

カワサキが二輪事業を始めてもう50年を過ぎているのだが、二人ともそのスタートの時代から単車に異動して、田崎さんは生産、私は営業だったのだが、『レースチーム』をご縁に繋がったのである。

田崎さんは、何回もアメリカ勤務をしているのだが、最初のアメリカ行きが決まったのは、1965年6月のことで、その時は『レースチーム』から大槻幸雄さんがドイツに留学されるということでで、お二人の送別会を明石デパートの屋上のビアホール行っている。

会費は1000円だったと思うが、当時の1000円は結構高かったそんな時代だった。

 

★ 田崎さん、写真と一緒にこんなメールを送ってくれている。

 

『1965年8月日本出発時の為替レートは、360円、一人当たりの持ち出し限度額は、500ドル、で闇ドルの価格は、400円だった。9月に最初の渡米地シカゴで、渡邊さん、と二人の出張所を設けた。

その後、種子島さんがやってきた。全米をカバーするサービス体制を強化するには、まず部品センターが必要だという事になって、その後、黒田さんもやってきて翌年1966年3月に部品センターを設立した。』

 

 

 

シカゴに『部品センターを設立した』などと大きなことを言ってるが、この時田崎さんは係長にもなっていない『ペイペイ』の頃なのである。

当時、第1線に出た連中はみんな若かった。単車事業自体がスタートしたばかりで経験者がいなかったから、若手がいろいろとやったのである。

 

アメリカ市場開拓の旗を上げたのは当時本社企画にいた浜脇洋二さんである。

渡辺くんは日本で本社の浜脇さんの企画にいたので、一緒にアメリカに渡ったのである。彼は大学の後輩だったので、アメリカに行く前に挨拶に来たのを覚えている。それにアメリカ市場のトーハツにいた杉沼浩さんが加わっているのだが、田崎さんは日本人としては4番目、明石工場の単車事業部としては、初めての人材派遣だったのである。

世に言われる『7人の侍』が揃うのは明石から種子島・黒田くん、本社から久保勝平くんが加わってからのことなのである。

 

 

『AKM(American Kawasaki Mortorcycle Corporation)である。これがKMCの創立という事になっている。

会社である以上、税務のこともあり経理屋さんが必要だと要請したら、ノートにつけて時々DKBで見て貰え!などと乱暴な返事がきたが、さすがに5万ドルの資本金と部品のコンサインメント(日本からの委託販売で売れたら支払う契約)もあり、田中 誠さんが、久保勝平掛長(カケ長と呼んでいた)を連れてきて、置いて帰った。』

 

久保勝平くんは、私と同期だから田崎さんより1期上、この年係長になったばかりの時である。 久保勝平君、大学では法科だったのに、川崎航空機ではなぜか本社経理に配属されて、経理学校に通って経理を勉強したのだが、その学校で開校以来『こんな真面目で熱心な生徒は初めて』と言われる逸話の持ち主なのである。

田中誠さんは当時は本社の財務担当取締役だった。 久保勝平君がそんな経緯でKMCに行ったとは、今まで私も知らなかったのである。

 

 

当時の『7人の侍』のうちの6人で、もう一人が杉沼浩さんである。

7人のうち杉沼さんは、元トーハツのアメリカ市場の経験者で、英語も話せたしアメリカの事情もよく解っていたのである。

 

   

 

  

 

車で言うと、WIだとか、A1 の時代である。

W1は、何故かアメリカ市場では、通用しなかった。

 

アメリカで、カワサキが認知されだした最初のマシンはA1なのだろう。 その開発当時、アメリカを走り回ったというのが百合草三佐雄さんで、シカゴの事務所が拠点の一つだったようである。

田崎さんは私へのメールでこのように書かれている。

A1のテストは、百合草三佐雄さんが担当していたのだが、シカゴから南部へ向けてプロのライダーに走行して貰い、私が車のチェックをしたものです。1966年1月の事で百合草さん、種子島さんも居たのですが、二人ともまだ車の運転ができなかったので、杉沼さんがライダーと契約し私が伴走車を運転しながらのテストだったと思います。

 

 当時のことを百合草さんは、『カワサキZの源流と軌跡』の中で、このように書いている。

『1965年、A1のテストをアメリカで実施した。各代理店を訪ねた時最大の要望は『故障しない』ことであった。広大なアメリカ大陸では『故障で止まること』は日本では想像もできない危険に遭遇する。砂漠の真ん中のハイウエイで故障したら大変である。夏では40度を超す猛暑、冬は零下になる。いずれの場合も生命に影響する。・・・・』

百合草さんは、昭和35年(1960)年入社で種子島さんと同期だから、未だ入社5年目の若手だった。

 

★カワサキのアメリカでのスタートは、田崎さんがシカゴで造った部品会社AKMが今のKMCの前身なのである。

浜脇洋二さんがリーダーで、杉沼・渡辺・田崎・種子島・久保・黒田の日本人『7人の侍』に、アメリカ人のアラン・マセックが加わって、カワサキのアメリカでの二輪事業はスタートするのだが、アラン・マセックが加わったのも66年で、田崎さんはその経緯をこのように書かれている。

 

1966年に種子島さんと一緒にネブラスカ、スコッツブラフのMASEK AUTO を訪問した。

浜脇さんから頼まれていたのだと思うが、オーナーの息子のALAN MASEKに カリフルニアで働かないかと打診した。たまたま フランスのソルボンヌ大卒のエリートの奥さんがこんなド田舎の生活はもう嫌だといって、喜んでカリフルニアに行きたい、と言っていたので、それを浜脇さんに伝えた。このヘッドハンティングの成功が後の浜脇社長ーALAN MASEK販売担当筆頭副社長コンビのKMC長期政権の誕生となった。ちなみに、ALAN も ハーバード大卒のエリートである。

 カリフルニアにもAKM支社が出来、安藤佶郎さんも出向してきた。次は東海岸だと米人マネージャーと後のEKMの建屋を探したりした。

 安藤佶郎さんは、大槻幸雄さんのあとのカワサキのレース監督で、1966年まで私と一緒にレースを担当されF21M のエンジンなどを創られたのだが、この年の末、レースチームから安藤さんはアメリカに、私は仙台に行くことになるのである。

1967年の1月のことで羽田からアメリカに発たれる安藤さんを当時は伊丹では沢山の人たちが見送ったのだと思うが、羽田空港では私一人で安藤さんのアメリカ行きを見送ったのである。

 

★単車事業のアメリカ進出時は、後川重社長にもなられた四本潔さんが未だ川崎航空機時社長の時代だが、直接浜脇さんの後ろ盾になって応援して頂いたのである。

田崎さんのメールは、こんなことも書かれている。

 『浜脇さんも時々やってきて、四本社長、中南さん、も来社した。四本社長を空港で遅れて走らせたり、お前たち金がないのだろう、と我々のエアーチケット代を払って貰ったりしたら後で聞くと日本で経理に苦情を言われたらしい。とにかく外貨不足で、現地の日商で借りたりして、後でお前たちは外為法違反だ!と叱られた。

 商社安宅との縁切り話もあり、浜脇さんの指示でNYへ行くことになり、それならついでに東部販売店のサービスを、とシカゴからニューヨークまで一人で車を走らせた。  安宅の高木社長はカナダの石油に手をだし安宅を潰し、(ザ・商社)という映画にもなった有名な人だが、カッコイイ,ビジネスマンだった。

全米の関係商社、ディストリビュウターから、一度渡した販売権を返して貰うのが浜脇さんの戦略で、ユーザーに迷惑をかけないためにはメーカー直接のサービス網の拡充が重要な課題になっていた。

 1966年末に、岸田課長から帰国命令が出たが、1967年早々に、また大仕事が命じられた。商社、ディストリビューターの変更でカナダに売った大量の製品を梱包状態のまま転売することになり、かなりの期間も経過しているので品質の保証に立ち会え!というのである。最後の仕事として、それを片づけ、西部支社の安藤さんに、サービス業務を引き継いで、3月に帰国した。

 

★田崎さんも67年3月には帰国して、今度は日本で部品を担当することになるのだが、その時やっと係長昇格でいろいろアメリカでやってた時代は『大きな仕事』だったがぺいぺいの時代なのである。こんな貴重な経験が、いろんな形でその後に生かされていくのだと思う。

この時代、初期のカワサキのレースを担当していた人たちが、初期のカワサキの事業も引っ張ったのである。

山田熙明・苧野豊秋・中村冶道・髙橋鐵郎・大槻幸雄・安藤佶郎・古谷錬太郎・田崎雅元・百合草三佐雄 年次順で並べるとこうなるが、この中から川崎重工業社長と副社長が二人出ているのである。

 

 

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