★ 今年になって、また突如 田崎雅元さんとのやり取りが、俄然増えている。
田崎雅元さん、元川崎重工業の社長だし、社会的にはめちゃ立派な『エライさん』なのだが、現役時代若い頃から、いろんなことを一緒にやった仲間なので、今でも「そのままの関係」が続いている。
幸いにして? 私が一期先輩、2歳年上なので、田崎さん、気を遣って頂いて今でもそのように接して頂いているのである。
Google で 『田崎雅元』と画像検索すると、こんな写真がいっぱい現れる。
その殆どは、私がネットに発信したものである。
カワサキのファクトリチームの25周年の時の写真だが、こんなレース仲間が田崎さんとの原点である。
二人、並んで写っている。前におられるのが、山田熙明川重副社長、80年代の二輪事業再建の旗を振られた。高橋鐵郎さんも、苧野、中村さんも大槻さんの顔も見える。安良岡、山本、和田、歳森、星野、金谷、岡部、梅津、清原等々錚錚たるライダーたちだも当時のレースを支えた現役たちも一堂に会している。
カワサキの二輪事業を引っ張ったのは、間違いなく『レース仲間』達なのである。
このOB会、高橋鐵郎さんに『7万台を売れ』と言われて、1988年10月から3度目の国内担当だったが、販売よりも真っ先に『レース活動を復活する』という宣言のために10月15日に、私が主宰したものなのである。
安藤佶郎、百合草三佐雄さんはアメリカにいたので出席されていないのだが・・・
これは、2011年3月、レース仲間の平井稔男さん主宰の『カワサキの想い出、そして未来』には高橋鐵郎さんと一緒に出席してくれて、幕開けの挨拶をしてくれた。女性は明石時代のお二人の秘書さんである。
毎年、神戸のカワサキワールド前で開催される『ミニ・トレインのイベント』は、私と田崎さんが川重会長時代に立ち上げたイベントだということ、ご存じだろうか?
当時の神戸副市長のところに一緒に行ってくれて神戸市のメリケンパークをお借りすることができるようになったのである。
ここに乗ってる3人と、福井昇くんがその仕掛人なのである。
これは今年、ごく最近復活した田崎さんと 相信会で。
現川重金花社長さんは、高校の後輩ということでご一緒に、もうお一人は川崎航空機同期の 藤川さんである。
★最近、『カワサキの二輪事業と私』に田崎さんがいろいろと写真や、文章を送ってくれる。
1980年代、一番大変な時期を一緒にいろいろやったのは、二人にとっていい想い出なのである。
裏話がいっぱいあるが、当時の二輪事業に従事されてた方も、殆どご存じないことが多いのである。
これなども私もよく知らなかった81年のKMCの出来事である。
髙橋さんと田崎さん、81年の8月にアメリカに渡られた、その直後からのことだろう。
私は、1年遅れて82年の10月から、またご一緒することになるのである。
KMCの再建については、やるべき事はおおむね決まっていた。ただ実行にあたってはいろいろと思はぬ障害が発生した。KMC問題はすでにKHI本体の大問題になっていたため、KHIとKMCの間の財務的な処理はきめられた事を実行すればよかった。
当時は、本社財務がいろいろと基本方針を決めて進めていたのである。
まず、KMCの増減資、ところがこれが簡単にはいかないことが判明した。KMCとKMW(カワサキミッドウエスト、中西部をカバーしていた販売会社)との間で株式交換が行われており、日商アメリカ、KMCのエグゼクティブも株式を若干保有していた。 それぞれ保有している株式が無価値になる事について株主の自己責任とわりきるには法的な問題を引き起こす可能性、特にKMWは利益を出しており、LIFO(後入れ先出し)リザーブと称する節税型含み益を持ち健全に経営されていた。とにかくこちらの思うように処理しようと思えば、将来のことも考えて、この際KMWを買い取ることにしよう、と交渉に入った。
1981年末の事である。 ハードなネゴを繰り返し、買収価格は3ミリオンドルという事になったと思う。KHIの経営会議にこの話を持ち出した時、二瓶副社長から「これは背任になるのでは」と言われ、昼休み中に本社企画の近藤さん(だったと思う)から「そんなことにはなりません」と説得して貰ったが、なかなかOKとならず、帰米してすぐサインをしなければと焦る私に、最後に長谷川社長が「皆さん、本件はKHIに更に金をだしてくれという話ではないからいいじゃないですか」とGOサインを出した。
田崎さんは、渡米する前から、技術屋さんなのに『ハーレーダンピング訴訟』を担当するなど何事も器用にこなしていたのだが、当時のKMCの対策は、財務主導でなかなかややこしかったのだが、それを無難にこなしていた。
この場面ではまだ古谷さんはいなかった。たぶん私の付添人は高橋宏さんだったと思う。「君は自分では書かずに人に書かせて上手く説明するなア」とよく言われていた。
この当時、私はまだ国内カワ販担当なのだが、高橋宏さんが言われてること、よく解る。
私が最初に田崎さんと出会ったのは、未だ彼がジェットにいて労働組合関係の会議だったのだが、その発言を聞いて『間違いなく事務屋だ』と思っていたのである。
KMMの分離、KHIへの譲渡はKMCとしては特に大きな問題はなかった。ただし「潰しても仕方がない」と言われたKMMの社長になった佐伯さんには大変な苦労をかけることになった。 仕事不足で週3日の操業、それでも何とかレイオフを避けようとリンカーン市の市庁舎のペインティング作業に協力、10月には時のレーガン大統領から感謝状を貰いCBSニュースで報道されるなど、彼は組合のない日本的な家族経営で全米一生産性の高い工場にして生き抜こうと懸命の努力をかさねていた。
佐伯さん、未だ課長の頃だけど、このころよく頑張ってたなと思う。KMMのほうが実務的に仕事もなく大変だったのである。
1982年に入り、スノーモービル事業からの撤退、全米に5箇所あった部品センターを3箇所に集約、クレジット機能を販売組織から分離、KMC本社へ集約、人員の削減(550人から400人体制?)と一挙にかたずけ、一刻も早く通常の販売業務に専念しようとしていた。
1974年~1983年のH-Y戦争(清水一行の「首位戦争」を読むとよい)の余波を受けたアメリカのモーターサイクル市場環境は、ハーレーのダンピング提訴、に続き、1983年のITC(米国国際通商委員会)によるハーレーの救済処理勧告にもとずく大型車の輸入制限、1986年の夏には戦争終結に関する日本側のマスコミ情報、業界の日本的慣習から日本各社の駐米トップを含む主要メンバーは独禁法違反容疑でオハイオ州で行われた大陪審に喚問され、さらには利益の出ていない、税金を納めない日本企業に対する移転価格問題へと、永年雇用によるブレーキ故障の生産マシーンといわれる日本製造業に対するプレッシャーはとどまることがなく、やがては、自動車、半導体等で日米構造協議へと政治問題化することになるのである。
そういった意味ではモターサイクル事業は世界を席巻し貿易摩擦の最先端を走っていたのかも知れない。ただ各国とも、さほど保護すべき重要産業だと認識せず、お目こぼし産業だったのではと思う。(余談ながら私の手元には1982年と1983年の手帳が無い、アメリカ司法省に差し押さえられ返してもらえなかったのである。)
★当時、田崎さんも私も新米部長の40代、みんな若い頃から大変なことばかりやらされたので、あの頃のカワサキの二輪事業は独特な雰囲気だったのだと思う。
当初は、本社に全く信用されていなかったのだが、この81年から数年で、『カワサキ二輪事業』は信頼を得て、
大庭社長・高橋副社長・田崎社長・佐伯副社長など、川崎重工業全体を動かすことになっていくのである。
これはもっと以前、 昭和41年(1966年)田崎さんレースのあと、アメリカに最初に渡った時である。
一緒にいるのは、当時のKMCの浜脇洋二さん、川重で言えばまだ課長職の頃である。
田崎さんも、確か未だ係長にもなっていなかった時期だと思う。
★田崎さん、ここ数年体調を崩して全然ダメだったのだが、今年から突如復活して、いろんなお付き合いがまた始まっているのである。
現役時代、一番長くいろんなこと一緒にやった人は、『田崎さんかも知れない』のである。
引退してからも・・・・・それがまだ続きそうである。
ちなみに、8年前からスタートしたNPO The Good Times の会員には、スタート時点から参加して頂いて、高橋鐵郎さんが昔で言う監督NOのNo.0030 番、田崎さんがNo.0031番なのあと30番台カワサキの二輪事業の仲間たちが続いているのである。
Kawasaki .Let the good times roll !
1975年にアメリカで創られたカワサキの二輪事業の基本コンセプトなのだが、その後眠っていたものを、1990年代初めに国内市場で復活して、当時カワ販の社長でもあり、CP事業本部長でもあった高橋鐵郎さんが全世界展開を決められ、長く川崎重工業の基本コンセプトとしても使われていたものである。
アメリカでスタートしているので、正規の日本訳はないのだが『カワサキに、出会う人たちがハッピーになるような活動をカワサキは展開し続けます!』というカワサキの姿勢を示したものである。
そんな姿勢を引き継いで、『NPO The Good Tomes 』に出会う人たちが、ハッピーになるような活動を行いたい と思っているのである。
★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。