★昭和57年(1982年)は、7月1日 に トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併により、トヨタ自動車発足したり、8月1日には神戸市垂水区の北西部が西区へ分区され、神戸市は現行の9区体制になったりした年だという。
私にとっては40歳代の最後の49歳の年でもあった。
カワサキの82年モデルと言えば、GPz 400 や
GPz 750 などが発売された年でそこそこの人気だったが、FX400のような圧倒的な売れ行きではなかったが、
私が担当していた国内市場のカワ販は、この4年間その経営は非常に安定していたのである。
★ 前年の8月から当時の主力市場アメリカのKMCの再建のために『高橋鐵郎・田崎雅元コンビ』がアメリカに渡ったのだが、前年の81年も赤字が続き、82年度も継続して大きな赤字が見込まれるという時期だったのである。
川崎重工業の本社部門、それもTOPレベルの人たちが、『カワサキの二輪事業』に対して非常に大きな関心を持たざるを得ない、そんな状況に追い込まれた時期なのである。
かって抜群の急成長でカワサキの二輪事業を引っ張ったのもアメリカであったが、この数年『スノーモービル』の赤字、それを生産していた『リンカーン工場』の赤字がKMCの経営に大きな影響を与えた上に、HY戦争がアメリカ市場にまで飛び火して、その値下げ競争や在庫過多、さらに当時のアメリカ市場の20%近い高金利などから、KMCの赤字の額は日本円にして100億円のレベルに迫り、川崎重工業との連結決算の結果、川重自体が無配に追い込まれるそんな状況だったのである。
『海外販売会社の赤字』を改善することが最大のテーマだったのだが、当時『販売会社の経営』の経験があった人は殆ど皆無と言ってもいい状況だった。そんな環境の中で独り『国内のカワ販』だけが安定して4年間黒字経営を続けていたこともあって、川重本社部門や当時のTOP の人たちの国内カワ販に対する信頼度は異常なほどだったのである。
★KMCをはじめ、カワサキの海外子会社を『カワ販の傘下』とし、カワ販型の経営を展開するという当時の川重本社経理部の試案があって、この方向で進めることが当時の長谷川社長まで届いていたことなど、ご存じの人は殆どおられないと思うのだが、そんな書類が私の手元に残っている。
なぜ私の手元にあるのかというと、本社経理から具体的な相談があったからなのである。
単車事業部におられた方でも『こんな話』があったことなど、ご存じの方は少ないだろう。長谷川社長もご出席の会議の席上で、KMC問題を検討しているとき、『ところでカワ販の子会社にすると言う件はどうなった?』と社長が質問されたのである。本社スタッフは上手に答えたのだが・・
この計画が実現しなかったのは、カワ販で検討した結果、資本金の増額などの対応で、現実に『ムツカシク』実現するには時間が掛り過ぎて不可能だったのである。
この一事を見ても解るように、海外子会社を黒字化するためには『カワ販のノウハウ』を必要としていて、当時の川重本社の『カワ販への信頼度』は抜群だったのである。この案と同時に、単車事業部全体の『別会社構想』もあったのだが、これは当時の山田専務が反対されていて実現しなかったのである。
★それはともかく、前年度からのKMC対策は次のような形で進められてきたのである。
● 昭和56年4月 常務会で、 スノーモービル事業からの撤退・リンカーン工場のKMCからの分離独立・KMCの増資
● 昭和56年7月 常務会で、 KMCへの増資25百万ドル と 90日ユーザンスの実施
● 昭和56年8月 高橋鐵郎会長・田崎雅元社長 のKMC 会長・社長人事
● 昭和56年11月 リンカーン新製造会社設立
本社財務部門メンバーによる「KMCワーキンググループ」の発足
などで具体的に対応してきたのだが、なかなか成果に繋がらず、
● 昭和57年4月 単車事業対策委員会が発足し、 委員長に山田熙明専務 が担当されることになったのである。
★山田専務はかっての単車事業部の技術部長をされていて、創成期のカワサキのレース関係にも直接関与されていて、デグナーとの契約などは山田さんが直接担当され、私がその契約書原文を創ったなど、二輪事業の細部をよくお解りの唯一の川重トップと言ってもよかったのである。
そんな山田熙明専務が担当されてから、このプロジェクトは急速に動き出すことになるのだが、7月1日の早朝、山田専務から自宅に電話があって『9時に本社まで出頭せよ』との指示を頂いたのである。
私の10月1日からの事業本部の企画部長への異動は、この7月1日に事実上決まったのである。
この時山田専務から私に質問のあったのは、『KMCの黒字化』についてどう思うかということだったので、『それは2年もあれば間違いなく実現可能です』とお答えしたので、『企画に戻ってやれ』ということになったのである。
販売会社の機能とは、仕入れたものを『販売する』という至極単純なもので、小売店から大販売会社までいろいろあるが、そこが『赤字になる』というのは、これは『人災』なのである。普通にさえやれば『黒字になる』のは普通のことなのである。
当時のカワサキの販売会社が赤字になってしまうのは、基本的な仕組みが完成していないことと、実力以上に『頑張り過ぎた人災の結果』だと思っていたので、その原因さえ除去すれば そんなにムツカシイことではないと思たのである。
そしてその時山田専務に条件としてお願いしたのは『高橋鐵郎さんを企画室長で戻してほしい』という一点だけだったのである。
単車事業の経営の安定化方策立案は『できる』と思ったが、その政策を全軍に指揮するには新米部長ではダメでどうしても高橋鐵郎さんに旗を振って貰わぬとダメだと思ったからである。
山田さんは、『KMCを田崎で出来ると思うか?』と言われるので、『田崎さんは私より一期若いだけで、KMCが田崎さんで出来ないと思われるなら、私の企画部長もできないと思います。』とお答えして、高橋企画室長が実現することになったのである。
★今回の『カワサキの二輪事業と私』はカワサキの二輪事業の核心に触れる部分なので、私なりに正確にきっちりと書いておきたいと思って、昔の資料を念入りに読み直して書いている。
それはこんな1冊のファイルにぎっしりと資料が残っている。それも私しか持っていない資料が殆どなのである。
ここでいう『単車再建』のキーは『KMCの再建』でもあったので、これ以降数年間、KMCの社長であった田崎さんとのやり取りが密接に続くのである。
このKMCの再建は、極めて大変な問題ではあったのだが、田崎さんも私も、同じ朝鮮・満州という大陸育ちで『ネアカ』にしかモノを考えないタイプで、悲観的にならなかったから『ウマくいった』のだと思っている。
田崎さんをご存じの方は、よくお解りだと思うが、兎に角『よく喋る』のだが、私は何事もすべて自分の意見は文章にして残しておくタイプなのである。
この年の田崎さんとのやり取りも、殆ど全て書類として手元に残っているのでそれを見ながら書いているのである。
★この年10月1日付で、高橋鐵郎企画室長・古谷企画部長体制となるのだが、12月末までの3ヶ月で、今後の展開となるトータルシステムの構築は ほぼ完成したのである。
具体的には
● 従来の企画は各販売会社が創った事業計画をただ纏めるだけであったが、特に民需量産事業などでは、個別最適値の集計が全体最適値とはならないことが多いのである。
これを根本的に改めて、企画部が『全世界に展開する販社を含めての全体最適値』を自ら創って、販社の事業計画の骨子は明石の企画で創り指示するという中央コントロール型に変えたことである。
●そのために新しく販売会社を統括する『関連事業課』を創り、直販会社の管理は営業部から外し、関連事業課が担当することに変更し、その方針に基づき翌年度昭和53年度の各販社の事業計画は、各販社に明石まで来てもらって協働作業で骨子を創り上げた。 その計画は翌年度全販社黒字計画となり、翌年度からは月次損益を行い毎月その推移を関連事業課が把握出来るようにしたのである。
●事業本部の収益性の改善の第一歩としては部品価格の事業本部内限界利益が50%になるように全面的に改正し、企画で決定して即実行に移したのである。これで部品の利益額はほぼ倍増することになったのである。
●最重点のKMCに対しては、カワ販から富永・日野君という販社経営の専門家を逆出向させ、明石関連事業課と密接な連携を図るようにした。
●企画室内には、開発・生産など明石工場に関する業務が川重本社との実務やり取りが多く時間が掛るので、この業務は生産企画機能として大前太課長担当として一任し、企画部としては二輪事業全体の本社機能的役割を主たる業務として武本一郎課長の担当としこの分野の基本コンセプト立案を私が担当したのである。
そしてこの年には、本社の財務部門の若手メンバー中心の調査チームが存在していて、主としてKMCへの財務対策が具体的に検討されていたのである。
上記の二輪事業のトータルシステムと、この本社グループの具体的な『財務対応処置』とがうまく嚙み合って『KMCの再建』ひいては『二輪事業の再建』は実現したと言ってもいいのである。
具体的にはKMCに対する60百万ドルという資金投入、180日ユーザンスの供与などと言うドラスチックな財政面での支援がなかったら、二輪事業再建などは間違いなく実現しなかったのである。
このメンバーたちのうち、その中心メンバーであった小川優さんは、翌年から単車事業部に異動して私を援けてくれただけではなく、NPO The Good Times でも監事を務めてくれたし、今もFacebook で繋がっているので、ご存じの方も沢山おられると思うのである。
このグループの長をしていた横山昌行さんは川崎航空機の同期だったので非常にやり易かったのである。
松岡京平、富田健司さんという当時の若手は、田崎・百合草KMC社長時代にはKMCに出向して、具体的に手伝ってくれたし当時の経験がその後にも間違いなく生きたと思うのである。松岡さんは川重の前副社長だし、富田さんは現副社長でその前は二輪事業を自ら担当されていたのである。
内田道夫さんはUK社長などもおやりになりKR250/350 のGPレースをヨーロッパで展開された、メグロ出身のあの内田さんなのである。
●私自身は11月初めには約10日間KMCに出張し、田崎さんと密接に今後の展開の打ち合わせを行ったのである。田崎さんとは若い頃から何度もいろいろと一緒にやってるのだが、仕事の話をこれだけ密接に詰めたのはこの時が初めてで、間違いなくお互いの『信頼感』みたいなものが出来たと思っている。出張中は何度もお宅にお招きいただいて食事などご馳走になったのである。
その出張には、本社の田中吉正経理課長も同行してくれて、本社メンバーとも話す機会が出来たし、私自身KMC再建は『その営業外対策』がメインだと思っていたので、そのあたりのことも田崎さんに話せるホントにいい機会だったのである。
★ところで、カワサキがスノーモービルを持っていたのをご存じだろうか?
その性能は結構よかったということだが・・・KMC の経営悪化の引き金がこのスノーモービルで、暖冬で雪が少なかったのが、運が悪かったとも言えるのである。
田崎さんが『スノーモービル』に関して、こんなことをメールで送って頂いたのでご紹介する。
北米では暖冬が続き、販売が伸びずに在庫がたまる一方のスノーモービル(雪上車)が問題になり、この事業から撤退するべきだという意見は、KHI本社部門を中心に単車事業部の中でも数年間繰り返されていた。
私がKMC社長として渡米する時には、これは決定事項になっていた。しかしながら、この事業の生い立ちから、多くのリスクを抱えながら、KMCが自ら、この撤退作戦の戦略、戦術、戦闘を遂行するという事になる。 この事業の生まれ方は明石の単車事業部としては「実の子」とは言えない異常な生まれ方をしていた。
ヤマハのエンジンを搭載してスノーモービル事業を展開していたカナダのスノージェット社からKMCが事業を買い取り、ミネソタ州のシャコピー(Shakopee)に開発センターを設け、リンカーン工場で生産し、KMCが販売する、という仕組みで、明石工場の立場は発動機事業部がエンジン のサプライヤーとしてのみ関与するという形であった。
単車事業部としては、製品企画、設計開発、生産技術、品質保証、アフターサビス等の関与なしに生まれた製品であり、関心のない人がほとんどであった。図面はインチサイズ、明石には図面、部品表、取扱い説明書、etc 何もなかった。後に、この反省から米国で生まれたジェットスキー、四輪バギィー車などは全て単車事業部の仕組みの中で実の子として育てていくことになる。
さて、事業の拡大に伴うセールスインセンティブを中心に展開されている販売会社の米人従業員達にとって、撤退には上から下までネガティブであり、撤退作戦に伴う、風評被害、モーターサイクル事業に影響するドミノ論、売掛金の不良債権化、在庫処分、継続的なアフターサービス責任、モーターサイクル/スノーーモービル併売店の維持などの問題で混乱することが考えられるので、「撤退は決定事項である、ユーザーには迷惑をかけない事を前提に、如何にロスをミニマムにするかに知恵を絞ろう」とトップダウン型で推進することに決めた。
撤退のシナリオとしては、社長の一時帰国、株主KHIの意向確認、帰米後臨時取締役会、事業撤退の決定、一般公表、開発センターの閉鎖、試乗テストチームの撤収解散、人員整理と一挙にすすめることとした。KMC取締役会では二人の米人役員が撤退反対を表明をさせて貰えないか、と申し出てきた。ディーラーからの訴訟リスクを回避したかったのだろう。議事録にはそのように明示されている。
開発センターの閉鎖は典型的なアメリカ方式であった。人事担当役員が出張し閉鎖を宣言、従業員は一時間以内に私物をもって退去、後は警備保障会社が管理する、というやり方である。センター長だった柳内さん(同期入社)には大変なご苦労をおかけした。市場では、製品の人身事故に係るキャタビラのリコールの最中であったが、これにも真剣に対処した。生産設備、型治工具、仕掛品の始末ではリンカーン工場には多大の損失を発生させる事になった。
確かに、当時のアメリカでの事業展開は、カワサキ自体が未経験な分野だっただけに、リンカーン工場も最初は販売会社であるKMCの傘下であったり、このスノーモビルも、ジェットスキーも、発動機事業部の製品だったことから、明石の単車事業部は関与しないままでの経営となっていて、やっとこの時期になってその撤退や、改善策が講じられていくことになるのである。
田崎さん、こんなことも書いてきておられる。その写真と共に、送って頂いた。いかにも田崎さんらしい。
『販売する製品には十分な係わりを持ち愛情を持って育てなければならない。』 これも私の信念になった。
ジェットスキーもバギー車もチャンスがあれば家族を含め自分で試乗して愛情を育むよう心掛けた。
次回、昭和59年度からは、愈々再建屋、大庭浩本部長(後川崎重工業社長)の登場となるのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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