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田崎さんからの メール と写真

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★ 田崎雅元さん、元川崎重工業の社長さんで、エライ人なんだが、私にとっては、若い時からいろいろと一緒にいろんなことをやった仲間だし、今でも昔の儘に気安く話せる『オトモダチ』なのである。

そんな田崎さん、いま私が毎週綴っている『カワサキ二輪事業と私』に興味を持っていただいて、いろんなデーターなど送ってくれるのである。

このシリーズも段々と佳境に入って、愈々次回からはそれこそ田崎さんと協働した『KMC対策時代』に入っていくのだが、私はいろんな記録は持っているのだが、当時の写真がないので、『田崎さん、持ってませんか?』とメールしたら、こんな貴重な写真を、自ら書かれたメッセージと共に送って頂いたのである。

次回の『カワサキ二輪事業と私』にもご紹介しようと思うのだが、折角懐かしいこんな写真も送って頂いたので、ちょっと私なりの感想を・・・

 

     

 

左から、安藤佶郎さん、青野格事業本部長、高橋鐵郎さん、田崎さん、そして高田信昭さん、当たり前だが、みんな若いな。

髙橋さん、安藤さん、田崎さんとは、カワサキのファクトリーチームスタート時のレース仲間でもある。

高田信昭さんは、当時の本社企画課長という一番のいい出世コースを投げ出して、KMCに身を投じたちょっと珍しい人である。KMC帰国後は、カワ販の東京など東日本販売の専務なども手伝ってくれて、私が現役最後に務めた北海道川重建機の社長は高田さんが引き継いでくれたのである。

 

    

 

安藤さんがこの時、KMCの役員やられてたのは記憶になかった。私は1983年の10月からは、企画に戻ってKMCを援ける立場になるのだが、その時はもう明石の技術本部長をやられていて、いろいろと手伝って頂いたのである。

 安藤さんの雰囲気がよく出てる写真だなと思う。

 

 KMCに異動された田崎さんの挨拶状も貼付されていた。

 

      

 

 

7月初めには田崎さんのアメリカ行きは正式に決まって、当時川重の公認会計士をされていた大谷先生に田崎さんを紹介すべく、大谷、坂口、古谷の大学同窓生と田崎さんとのゴルフをやったのを思いだす。

大谷先生には、その後大変だった事業部やKMCのことでホントにいろいろお世話になったのだが、気さくな先生で、田崎さんも私もずっとよく面倒を見て頂いたのである。

 

 

★田崎さんが、こんな一文をメールで送ってくれた。

     

古谷さん

貴方のお蔭で昔の話を思い出すチャンスを頂き有難うございます。

私は、1981年(昭和56年)4月1日付で部長職に昇格となった。 名刺は、発動機事業本部単車営業本部管理部 部長となっている。今思えば、当時危機的な状況に直面していた米国KMCに派遣されるという道筋が何となく出来ていたようだ。

そのあたりは、古谷さんのほうが裏情報を持っているかもしれない。

KHI本社では、明石に数人いた取締役から誰かをKMCに出向させるべきだという声が上がっており、落としどころとして高橋鉄郎理事がKMC出向することになったと聞いている。6月頃だったか、ある日高橋さんから「8月からKMCに出向することになった、君も一緒に行ってもらう、僕は会長、君は社長をやってくれ!」

「ただし僕は短期1年くらいで帰国することになるだろう」と言われた。 大きな不安も感慨もなく、骨は高橋さんが拾ってくれる、と自然体で受け止めたように思う。8月に青野取締役本部長、高橋理事と共に渡米、直ちにKMCの臨時取締役会を開催、高橋さんは会長、私は社長に就任した。

その後KMCの再建のため、構造改革、特に財務内容の抜本的な改革のためKHI本社を巻き込んで増減資を含め日本サイドに販売に係るコスト、費用を大幅に移転する事になり、親会社KHIを無配に追い込んだKMCの社長、という不名誉を背負い、親戚からお前はKHIを首になるのではと心配された。

とにかく、日本車全体の過剰在庫、為替レート、250円/ドル 金利20%という市場環境、銀行からはサブスタンダードと評価され、借入には親会社KHIの保証が必要という状況の中でのキックオフであった。

緊急対策としては、増減資、リンカーン工場のKHIへの譲渡、明石からの製品、部品の輸出条件の変更(L/Cアットサイトから180日サイトへ)P/Lコストの明石負担、KMCサイドは、スノーモービル事業からの撤退、人員削減、部品倉庫の集約、対ディーラーの販売条件(フロアリングと称する掛け売り)の変更、等悩んでいる暇は全く無かった。

今思えば、当初の2年間は、もともと技術職として、品質管理、補給システムのプロとして活動してきた私にとって、未経験な分野を学びながら常識を信じて走り続ける毎日だったが、「俺が一番に困るのは何かおかしい、俺よりも困る経営幹部が必ずいる筈だ」と腹をくくっていたのでさほど悩んだという記憶はない。

KHI本社の若い人達にもいろいろ助けて貰ったが、その殆どが後に日の当たるサラリーマン人生を歩んでいる事を嬉しく思っている。

一連のKMC対策について、古谷さんには、私の明石サイドのキャッチャー役を務めて貰い、帰国後の高橋さんと共に本社との間で、随分とご苦労を頂いた。

 後に、この経験から「子会社を赤字にしてはならない!」が私の経営理念の一つになった。

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田﨑雅元

 

 

★この年、当初からKMC問題は、大変だったのである。

そのあたりは、古谷さんのほうが裏情報を持っているかもしれない。 と田崎さんは書かれているが、当時カワ販を担当していて、毎月本社大西常務のところに月次報告に行っていたし、このプロジェクトの直接責任者であった山田熙明(当時専務)さんはかってレースを一緒にやたこともあり、神戸一中の後輩ということで特に面倒を見て頂いたので、いろんなこと特に人事問題はいろいろと聞こえてきたのである。『私の名前』も、頻繁に特に本社筋からでて、特に財務筋からはいろいろとあったのである。

田崎さんは、ご自身が書かれているように『販社経営』については当時は未経験な分野だったし、特に当時のKMCの状況が、営業損益までの分野よりは『営業外』のバランスシートに関する分野の対策が中心だったので、そんな関係で『本社財務』が関与したのだし、高橋さんと田崎さんに資金繰りやバランスシートの重要性を説いたのは、私なのである。

そんなKMCの営業外対策の実務運営のために、当時の国内カワ販から『富永・日野』というカワ販最優秀のコンビをKMCに逆出向させたりしたのだが、この辺りのことは、当時カワ販の副社長もして頂いた高橋さんが非常に理解が早かったのである。

田崎さんに、『KMC対策は営業外だから』と言ったが、最初は 『???』こんな感じだったが、技術屋さんがバランスシートに興味を持ったりすると、どんどん詳しくなって田崎さんのこの辺りの資金対策を含めた知識は本格的で、相当なレベルなのである。

『子会社を赤字にしてはならない!』と言われているが、その通りなのである。

 

● 髙橋さん田崎さんが、アメリカに行かれたのが、    昭和56年8月(1981)

● 私が企画に戻り高橋さんも企画室長で戻られたのが、  昭和57年10月(1982)

● 大庭浩本部長が再建屋として単車事業部来られたのが、 昭和58年7月(1983)

● 単車事業再建なって大庭副社長で本社に戻られたのが、 昭和61年6月(1986)

そして髙橋本部長となって、翌昭和62年度には、田崎さんもアメリカから戻り、私は企画から営業に、KMC社長には百合草三佐雄さんが引き継ぐことになるのである。

 そして一時38百万ドル(当時の日本円換算約100億円)もあったKMCの累損は、田崎ー百合草社長時代の対策で、1989年に完全に消去されて、文字通りの『KMC 再建』が果たされることになるのである。

 

★『カワサキ二輪事業と私』は次回から、高橋・田崎さんがアメリカに渡られた、1981年度になるのだが、その予告編みたいなものである。

田崎雅元さんという強力な助っ人が現れたので、これから続く、現役最後の1999年まで、いろいろと援けて貰えることになりそうで、この後もずっと、高橋・田崎さんと私との密接な関係は最後まで続くのである。

若し『カワサキ二輪事業と私』が田崎雅元さんとの二人三脚で書けたらいいなと思っている。

 

 

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