★ 昭和47年(1972) 連合赤軍に事件があったり、田中角栄内閣がスタートして日中国交回復などがなされた年である。
カワサキの二輪事業にとっても事業スタート11年目を迎えて、『新しい時代』に入るそんな年だと言っていい。
この年の秋には、『あのZ』がアメリカでも日本のモータショーでも発表され、カワサキはZと共に飛躍の道を歩き始めるのである。
前回の昭和41年のブログをFacebook に紹介したら、百合草三佐雄さんから、こんなコメントが戻ってきた。
Misao Yurikusa 古谷様、カワサキの歴史、昔を思い出しながら拝読しました。
この年は百合草さんどこでした? という私の問いかけに対して、こんな返事を頂いたのである。 1971年はZ1の開発でメーちゃん(山本さん)と一緒にアメリカでテストしたり、Z1が社運をかけた機種だけに設計の稲村さん、糠谷さん、富樫さんと清原さんも一緒に激論を交わしていました。 百合草さんは昭和35年入社、私の3年後輩なのだが、あの時代カワサキの二輪事業を引っ張っていたのは、みんなこんな若手たちだった。 百合草さんはもっと以前の250ccA1の時代からアメリカ市場での現地テストを担当していて、ここに出てくる清原さん、とかメ―ちゃんはテストライダー、あの『清原明彦』なのである。 ★国内でも『特約店制度』が、東京・名古屋・大阪地区でスタートしたのがこの年で、それをリードしたのは、30代の最後の年の私だったのである。 年初は単に大阪母店の担当だったが4月には愛知・岐阜・三重・長野・北陸3県を加えての中日本営業部を統括することになった。 この時点で東日本は加茂常務、西日本は清水屋常務がご担当で、その真ん中の中日本を私が担当という考えられないような重職となって、背伸びもいいところだったのだが、さらに10月からは東京をテリトリーに加えて『直営部長』として東名阪の太平洋メガロポリスという大市場の二輪車を担当することになり100人の仲間のリーダーとなったのである。前年から検討を進めてきた新販売方式の『カワサキ特約店制度』がこの年10月からスタートしたので、『その実施地域での統一した思想での展開』を当時の田中誠社長は私に求められたのだろうと思う。私の直接の上司がいつの間にかいなくなって、田中社長直轄で指示を受けるようなそんな形になったのである。
当時、アメリカ市場を担当されていた浜脇洋二さんは私の2,3年先輩なのだが、浜脇さんは当時の塚本事業部長が直接の上司ではあったのだが、浜脇さんを陰で実質支えられたのは、海外経験豊富な川崎重工業社長の四本潔さんだったのである。
アメリカで販社の設立、R&D技術本部の設置、さらに続いて日本企業で初めてのドラスチックなリンカーン工場の建設などの大事業が当時川重課長であった浜脇さんが主導したのである。
ちなみに私は川重の職位で言うとこの年の春やっと課長の職位を頂いたばかりだったのである。
★1972年、会社活動はこのように記録されている。
● 2月 二輪車の試作工場(36工場)完成。 この試作工場は百合草さんのコメントにでてくる糠谷さんの担当だった。
● 6月 4ストロークエンジン量産工場の39工場完成。これがカワサキの初めての4ストローク生産工場でZ1シリーズ用のものである。この時代ホンダは未だ2ストエンジンは持っていなかったし、スズキ・ヤマハは2ストオンリーだったので、カワサキだけが2ストも4ストも生産する唯一のメーカーとなったのである。
● 9月 Z1のアメリカ・欧州での発表、欧州でのはじめてのデイストリビューター・ミーテイングを開催し、愈々欧州市場への進出が図られている。
● 10月には東京モーターショーでZ1の発表があり、12月には国内向けのZ2の発表があった。
★ 私自身11月の社内誌に『雑想』と題して、このように寄稿している。 いま思うと『背伸びもいいところ』である。
★この年は、1月8日~1月15日までの国内販売店の 『アメリカ市場視察旅行』から幕開けしている。
これは全国カワサキ会として起案し、私はその副会長をしていた関係でこの調査団の団長のような形で渡米したのである。ほとんどの人たちが初めての海外旅行で、すべての経験が新鮮であった。KMCの見学などのロス近郊、販売店も訪ねたサンフランシスコ、帰りにハワイで2日を過ごした1週間だった。
参加した販売店は約100店、そのうち50店は東京市場から残りの50店はこの年から新しく『二輪専門店』を目指す人たちで大阪・京都・名古屋の人たちだったのである。
当時日本に比べて圧倒的に進んでいたアメリカの販売店や、二輪車を使った遊び方、レースの状況などを見て、販売店の発想が大きく変わるきっかけになったことは間違いないし、『大阪カワサキ共栄会』に続いて、帰国後すぐ『京都共栄会』がスタートしたりして、『カワサキの制度』としての検討になっていくのである。
通常、メーカーの『新政策』はその殆どが、本社企画の机の上で検討され立案されることが多いのだが、この特約店制度の検討は、販売店の意見も聞きながら第1線の若手たちが直接その検討を担当して、当時のカワ販田中社長に直結して創り上げたものであることが特筆できるのである。
カワサキオートバイ販売の『新政策』として、大阪母店のメンバーたちと名古屋鍋島英雄母店長(昭和38年入社)傘下のメンバーたちの間で検討されたのだが、平井・藤田・鍋島・南・古石・竹内・宮本・谷沢・久後・関・柏原・吉田くんなど、昭和42・43年度入社の若手諸君がその中心だったのである。
(ちなみに平井稔男・関初太郎・柏原久・吉田純一くんは、今でもFacebook でトモダチで繋がっている積年の仲間なのである。)
まさに異例の進行だったのだが、大阪で開催されるその検討会議には社長・専務が出席されるということが珍しくなかったのである。
この年の4月10日の日記にこのように書いている。
この特約店制度は、9月1日の二輪車新聞に大々的に発表され、9月8日に大阪の厚生年金会館でその説明会を開催しているのだが、翌日の9月9日には船場モータースの岡田博さんがその第1号店契約のために営業所をを訪れたりしているのある。
この契約内容は非常に厳しいもので担保提供を要求しているし、担保物件のないお店は保証金の積み立てをMUST条件にしていて、それをもって手形決済を認めているのである。
当時は手形制度の全盛期で販売店の資金繰りはなかなかムツカシク、手元に金があるとすぐ使ってしまう人もいるので、保証金ということも勿論あったのだが、特約店の人たちのための貯金という性格もあったのである。現実に新店舗を開設する場合、この保証金が役に立ったことも多かったりしたのである。
『共に栄える』ということが発想のベースで、弱少店ばかりの二輪業界から如何に『二輪専門店を育てるか?』という命題に対する挑戦であったと言っていい。育てるためにはその対象を明確にする必要があったし、立派に育てるためには『厳しい条件』は世の中の常識なのである。
Z2発売の時期も追い風となって、カワサキの特約店の人たちは、大きく飛躍したお店が殆どだったのである。
★私自身は、東京・名古屋・大阪という広範囲な地区の担当となって、殆ど休みがないほど忙しかったが、それに耐えられたのも若かったからだろう。
個人的なことに触れると、当時は高槻に家を借りていたのだが、今の三木に家も建て始めていた年なのである。勿論全部借金なのだが、土地代、建設費、庭の造園費を含めて約1000万円といま思うと安いのだが、当時の給与から言うと結構な値段だったのだと思う。ただこの年から4,5年は毎年20%も給料は上がって、4年経つと倍増するそんな時代であった。当時の苧野豊明専務が『君らな、いま俺が貰っている給与を3年後に貰っている』と言われていたが、確かにそんな勢いで 給料は上がっていったのである。
ちなみに翌年、発売されたカワサキ750Z2の価格は確か『428000円』だったから、安いのか、高いのか?
今もずっとお付き合いのある山本隆さんが加古川に『山本レーシングサービス』を開店されたのはこの年の 6月25日のことなのである。勿論私もお祝いに伺ったが、当時の苧野専務も高橋鐵郎部長も大槻幸雄さんも参列されて賑々しくオープンされたのである。山本さんは私よリちょうど10歳若いのでまだ、30歳にはなっていなかったと思うのだが、20代で店を持つのはやはり大したものだった、と思うのである。
★とにかく、当時のカワサキは『若かった』と言えるのだろう。先にご紹介した社内誌の名称は、確か『ヤング・カワサキ』だったと思う。
カワサキの二輪事業で、第1線で活躍した人たちは技術屋さんも若かったが、国内の営業部門で言えば39歳の私が一番年上だったし、『二輪車専門の販売網』など世の中に存在しなかったのである。
そんな状況だから、アメリカ市場でマシンテストをした百合草さんも、シカゴに販社を創った田崎雅元さんも、品質保証部門を立ち上げた田村一郎さんも、量産工場を造った人たちも、当時はみんな自ら考えて動かねばならなかったのである。
そんな人たちの独特な動きが、カワサキの独自のカラーになってカワサキ独特の『ブランドイメージ』に繋がっていったのだろう。
そんなカワサキの新しい時代のスタートの年ともいえる『昭和47年、1972年』だったのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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