★昭和35年に明石工場に二輪車の一貫生産工場をスタートさせて、昭和36年度から実質的な二輪車販売を開始して、10年の歳月が流れた。
私自身の二輪事業経験も昭和46年(1971)は、10年目を迎えることになるのである。
営業業務・広告宣伝・ファクトリー・レース・東北での代理店管理と営業を経験してきたのだが、みんな前例のないカワサキにとっても初めての仕事ばかりだった。そして、前年10月からは大阪営業所長を兼務すると同時に近畿地区の営業所統括と言う初めての第1線営業を担当することになるのである。
カワサキ自体が従来の『実用車のカワサキ』から脱皮し、地方から都会へとその重点を移した時期で、すでに東京都だけは茂木所長がカワサキ独特の二輪車専売店網を敷いていたのだが、その他の地区は当時の50ccモペット主力のホンダ・スズキ・ヤマハの先進3メーカーと同じ委託販売方式で、技術力も資金力もない数多くの町の自転車屋さんをネットワークし、台数を多く売ろうとする日本独特の方式だったのである。
『中・大型スポーツ車』を中心の販売展開をするために何か新しい販売方式を模索していた時代で、特に近畿や東海地区という東京に次ぐ大都会で何らかの具体的な販売網展開を求められていたのである。
★大阪地区は『実用車のカワサキ』時代には日本で最も弱いと言われていて、当時の大阪の販売台数は年間1000台弱、東北6県の販売台数の約8000台とは台数では比較にならなかった規模であった。
この年の事業計画は、兵庫を除く近畿5県で、販売台数2500台、売上高420百万円、営業利益60百万円で、そのうちの大阪営業所は、販売台数1000台、売上高200百万円、営業利益30百万円だったのだが、販売機種の主体は『中大型機種』であったことから売上高は2億円はそれなりの規模だったのである。
従来の委託販売方式では、大阪で取引のある販売店数は、部品取引だけの店も多くて帳簿上では500店もあったのだが、その殆どはまちの自転車屋さんだったので、『中大型スポーツ車』中心の販売のためには、確りとした技術力のある『二輪専門店網』を新しく創ることを目指したのである。
具体的には、従来の台数重視から取引金額ベースとし、その目標を『1販売店1000万円』として単純に計算すると、20店も創れば大阪の売上高目標は達成出来るので、こんな考えに共感する最低20人以上をを明確にして推進しようと単純に考えたのである。
候補店選択で最重要視したのは、『現時点の店の規模』などではなくて『カワサキの新政策』に共感し、一緒に協働しようという『人』を中心に考えた『共感ネットワーク』を創ろうとしたのである。
これは『業界の常識』を捨てて『世の中の常識』で発想した『差別化政策』なのだが、アメリカ市場でも、浜脇洋二さんがこの年、KMCの本社サンタアナに『R&D技術本部』を開設したし二輪車に詳しいアメリカ人を中心に経営を展開する徹底した『現地主義』という他3社との差別化戦略が採られたのである。
明石工場では田崎雅元さんが初めての『コンピューター管理による部品の自動倉庫』をスタートさせたり、二輪車以外の『ジェットスキーの試作艇』が完成したのもこの年で、カワサキの二輪事業も10年を経て、ようやく『カワサキらしい独自の差別化戦略路線』を歩み始めたのである。
★ この年のクルマと言えば、250S1・350S2や、当時世界最速と言われた750H2 が世に出た年である。
この年の7月に発売された 250S1・350S2 は、特に国内市場の『中型スポーツ市場』を意識して発売された機種で、特に250cc クラスで従来の250A1以来の新機種として期待された機種でもあり、新しい販売網の創造にとっても大いに期待されたものであった。
これらの機種から、初めてシートの後ろに『弁当箱』のようなカラーの箱が付いて、その後の2輪車のスタイルの先駆者となったのである。
当時の二輪車のスタイリングについては、あまり言われてはいないが、カワサキは非常に先進的で『世の中で初めて採用』というスタイルがずっと続いていたのである。これらは勿論「明石のデザインルーム」の人たちのデザインによるものだが、アメリカ人たちの『自由な発想』が原点にあるのではないかと私は思っているのである。
そういう意味で、この時代の二輪車のデザインについては、カワサキが結構先頭を走った と言えるのかも知れないのである。
具体的にいうと、それまでの二輪車のスタイルは、カワサキB1のような『メッキの側板』『各メーカーのタンクマーク』『ゴムの二―グリック』でどのメーカーも採用していたのである。
カワサキ250A1が発売されたのは1966年のことなのだが、この時に初めて『メッキの側板』が消えて『タンク塗装』がなされたのである。同じ年に発売されたB1Mも所謂『赤タンクのカワサキ』のタンクが使われたのである
1968年には、マッハⅢ 500SS が衝撃的なデビューをするのだが、この時点では『ニーグリップ』も『タンクマーク』も無くなって『KAWASAKIのロゴ』が使われたのである。
★この年の1月23日に和歌山の勝浦温泉に大阪の今後の有力店候補20店を招いて会合を持ったのである。
この勝浦温泉での会合で、年の取引額1000万円などの『カワサキの新方針』を明言しそのスタートを切ったのだが、船場モータース・西形自動車・イズシン商会・浜寺モータース・吉永オートサービス・野崎輪業など 招待したお店は十分にその可能性のある店ばかりだったのである。
その会合で、お店の方から『カワサキ会を創ろう』という提案が出されたのである。
この実行に当たって、二輪車新聞の衛藤誠さんの取材に応じ、2月5日の二輪車新聞のトップ記事として『カワサキの大阪の新政策』が大々的且つ詳細に報道され、一挙に二輪業界注目の的となったのである。『ムツカシイことにチャレンジ』するときは、自らの退路を断つべく公に発表するのは私の常道であり、それくらいの覚悟でやらない限り世の中で初めての新しいことなどは実現しないのだと思っている。これはカワサキの新政策が二輪業界の注目度も上がることにもなるのだが、その論理に周囲を納得させる正当性がある限り、それは『ものごと実現のための追い風』になることは間違いないのである。
完全に無視されていた『大阪のカワサキ』だったのだが、ホンダの営業会議で『カワサキが話題になった』などの情報が流れるなど順調なスタートを切ったのである。
10月に赴任して未だ半年にもならなかったが、『半年あれば物事はある程度実現する』というのは私自身の信念で、常に『半年単位』で物事を考えている。『半年ではできないが、10年経ったらできる』保証などはどこにもなくて、それは殆どが錯覚だと思っている。
このプロジェクトも、このあと伊藤モータースなど新しい店も加わって5月には約25店でカワ販の田中誠社長も出席の下『大阪カワサキ共栄会』の結成総会が開催されるという速いテンポで進んだのである。
★昭和46年度、この1年で大阪のカワサキは様変わりした と言ってもいい。
半年前には『ホンダは別格、世界のヤマハ・日本のスズキ・明石のカワサキ』と言われていた船場モータㇲの岡田博さんは、このカワサキ共栄会制度の推進者にとなって自ら会長職を引き受けて、各販売店をリードして頂いたのである。
10月には2回目の共栄会総会を開催し、このあとに続く『カワサキ特約店制度の基本構想』を発表し、大阪市場の500店の取引店との取引を中止し、契約した特約店とのみの契約にする方向を内示してさらに進めることにしたのである。
この会議には東京から北多摩モータースの根来さん、城東カワサキの高橋さんも応援に来てくれて、東京の実情なども話してくれたのである。東京の市場規模と比べると大阪では25店の候補に絞る方向とし、共栄会加盟メンバーを優先する方向で進めてゆくことにしたのある。
この時点でも二輪車新聞に『カワサキ特約店制度の基本構想』の詳細が報道され、その実現に向けて販売店と共に具体的な検討が続いたのである。
大阪営業所管内では、北地区には西形自動車、南地区では小泉製作所の立地に、10月には素晴らしい『ショールーム』を持つ北営業所、南営業所が開設されるのである。
また、カワ販本社も特に田中誠社長が大阪の展開には非常に関心を持たれて、10月には平井稔男さん率いる兵庫営業所も大阪母店管轄とすることを決められて、この新政策は兵庫県も含めての展開となるのである。
★私自身のことで言うと、未だ39歳の若さではあったが、6月に全国カワサキ会の役員人事の改選があり小野寺和夫新会長の下私は副会長として支え、その経営委員長を任命されて全国的な販売網経営戦略についても担当することになったのである。二輪事業10周年を記念して、全国的な『10周年記念セール』を起案し『KMCとアメリカ市場視察計画』をぶち上げたのである。世の中はまだ海外など行く人は殆どいない時代で、これも画期的な催しで、翌年1月早々のアメリカ視察旅行が実現するのである。
全国カワサキ会副会長などと言う肩書を頂いたおかげで、11月9日には東京で開催された本田宗一郎さんが歓迎委員長をされ、高松の宮様などもご出席になり、日本4メーカーのトップ役員が出席されたBPICMの世界の総会に夫婦でご招待を受けたりもして、全く初めての貴重な経験もしたのである。
こんなことの連続だったので、この年から数年間は忙しすぎて、流石にレース場にも全く足を運ばなかったのだが、大阪営業所には何故かライダーたちがしょっちゅう顔を見せていたのである。
大阪のサービスに篠原君というレース好きなオモシロい若手がいたこともあるのだが、和田 将宏くんとは大阪営業所で初めてお会いしてしょっちゅう顔を見せていたし、後Team Green の責任者を務めた野村君も当時はまだ学生だったが大阪営業所には出入りしていたというのである。
この時点ではすでにヤマハに移っていた金谷秀夫が小島松久さんと一緒に突然やってきたりした。何事かと思ったら小島松久さんがこの年『小島エンジニアリング』を立ち上げるのでカワサキのキットパーツを扱いたいというのである。そんなこともあって、彼の京都のお店も訪ねたのだが、小島さんとはその後もジェットスキーなどでも関係があったので、何年か前の『マウンテンライダーズ50周年記念パーテー』などにもお呼びがかかったりしたのである。
既に日産にいた歳森康師くんもやってきたし、山本隆くんは、加藤文博君と一緒に野崎輪業が主催した淀川のモトクロスに来てくれたりした。片山義美さんには何故か神戸のキャバレーに招待されたりしているのである。
これらが、みんなこの年だったというのは覚えていたのではなくて、日記をチェックしていたらそんな記述に出会ったので、記録したまでである。
ただ、ライダーだけではなくて、カワサキ以外のメーカーの方たちとも、カワサキの方以上に濃いお付き合いがあった方も多いのだが、それは私自身は、『カワサキの二輪事業のために』ということも勿論あったのだが、それ以上に『レース界とか二輪業界のために』というほうを優先していたところがあったので、それを感じて頂いての、長いお付き合いになっているのだと思っている。
それが、今でも続いているのである。
大阪の実質第1年目は、順調すぎるほどのスタートを切り、二輪業界の注目を集めた、ある意味カワサキにとって大きな『転換期』となったのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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