★ 昭和41年は、私にとっては広告宣伝課、レース担当最後の年である。
世の中では、羽田空港で飛行機の事故があったり、日本にビートルズがやってきたそんな年なのである。
私にとっては、『大変なことが連続の年』だたっと云えるし、勿論広告宣伝の業務もやっていたのだが、振り返ってみると『レース関連事項』が連続して続いているのである。『レース関連』で大きな出来事と言えば、『カワサキが初めてGPレースに出場した年』 『FISCO で初めて日本グランプリが開催された年』でもあるのだが、ホントにいろんなことがあったのである。
★ カワサキがレースに参画して、それはモトクロスからスタートしたのだが、そのモトクロスに関しては、カワサキがトップを極めた年だと言ってもいいのではないかと思っている。
とはいうものの、春先のMFJ日本グランプリでも、もう一ついい成績は出ずにRHのスズキなどに名を成さしめていたのだが、この年の7月に、前年からレース監督を引き継いだ安藤佶郎さんが238ccの新エンジンを提供してくれたのである。それをモトクロス職場でマシンに創り上げたのは、松尾勇さんなのだが、出来たマシンがF21M なのである。
これは、その後技術部が正規に造ったF21Mだと思うが、当初作ったマシンは、当時のヘリコプターからクロモリのパイプを貰ってきて、それに砂を詰めて、松尾さんが創ったベニヤ板の上に書いた図面に釘を打ってその通りにフレームを造り、当時では珍しかったセリアーニ タイプのフロントフォーク、21インチの前輪など、めちゃくちゃ軽くつくられた本格的なマシンだったのである。
これを7月の青森県津軽の岩木山麓で行われたMCFAJ全日本に持ち込んで、それ以降の日本のモトクロス界を席巻したのである。
三橋・安良岡・梅津・岡部・山本・歳森 のセニアたちと共に、星野一義・木村夏也などがまだノービスだが、大活躍した年である。
青森のMCFAJ全日本モトクロスの時の写真である。
当時のライダーやメカニックたち懐かしい顔が見える。
アメちゃんは多分当時青森の三沢基地ではモトクロスが盛んだったから、そこの人たちではなかろうか? 関東の厚木、九州の雁の巣など、日本のレースは米軍基地の周辺からスタートしているのである。
これ以降、カワサキは250㏄クラスでは、上位独占の連戦連勝の時代が続くのである。
この年ぐらいから、カワサキのエースライダーとして頭角を現した山本隆は、この年の2月27日に結婚式を挙げるのだが、私はその1ヶ月前の1月26日に突然山本から仲人を頼まれて、結局は引き受けることになるのだが、私自身が新婚早々の時代で、今から思うと、頼むほうも頼むほうだが、引き受けるほうも引き受けるほうである。
その頃は、山本隆も未だ若手と思われていた時代で、後こんなに有名になるとも思わなかったのだが、今となっては仲人をやったので山本隆にはなんでも言える立場にあるのである。
これがこの年の『大変なこと』の一番軽かった出来事である。
★ この年からカワサキは本格的なロードレース参画の時代に入り、技術部では当時の山田煕明技術部長などが125ccのGPレーサーの開発に入っていて、初出の日に突然私は藤井敏雄くんの訪問を受け、その契約内容の検討に入ることになるのである。藤井くんは元スズキのライダーだったのだが、どういう交渉の結果カワサキに来たのかは私は解らない。GP関係のライダー交渉は技術部で契約担当を私が担当していたのである。
彼との契約交渉の結果は、藤井くんの希望で『マシンの貸与契約』とし8月までヨーロッパを転戦した結果で日本GP 前に『ライダー契約』を結んで欲しいということでスタートし、4月以降予定通りの欧州転戦が始まったのだが、最終戦のマン島TTレースで、8月27日の公開練習中に転倒死亡するという事故が起こるのである。
事故の一報は、FISCOでのレースチームの練習中に中村治道さんから私に電話があり、東京の『藤井敏雄の自宅に行ってその旨を伝えるよう』に指示を受けるのである。その役自体が大変なことだったが、それから9月3日の告別式までの1週間、これは大変だったのである。
マン島から遺体を送り出してくれたのは、当時ドイツに留学中でたまたまマン島の現地に行っておられた大槻幸雄さんで、その棺を羽田で受け取ったのは私なのである。
『日本モーターサイクルの夜明け』というスズキの中野広之さんが纏められたサイト、http://www.iom1960.com/profile.html の中にこんな私と大槻さんの話が掲載されているのだが、 http://www.iom1960.com/kennsannkai/fujii-tosio-kawasaki.html
そこから転載します。
カワサキOBさんからの「藤井敏雄くんの思い出」
カワサキのOB furuyaさんの思い出文(http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8a687ff9d7c79c07988ad41cbf008117 のコメント欄)
【2007-02-01】
1966年8月27日、FISCOでマシンテスト中に電話が入り、藤井敏雄君のマン島での事故死のニュースを聞きました。そこから直ぐ、三橋実君の弟さんの運転で、赤羽の藤井くんご自宅に報告に行きました。
ご遺体が羽田に着いたのは9月1日、夕方の6時15分のことでした。その間、全てのことが、はじめての経験で、その日の日記に「遺体が着いてほっとした」との記述があります。「本当に着くのだろうか」と心配していました。
マン島の視察に行っていた大槻幸雄さんが、英国側での手続きをやってくれたのですが、いろいろスズキさんにお世話になったようで有難う御座いました。
昨年、片山義美君に会ったとき藤井君の話になり転倒後、話をしたとか言っていたと思います。
この後、すぐにデグナーのFISCOでテスト中の事故(9月29日)があり、本当に心配でした。
藤井君のついては、契約は担当しましたが、GP関係は技術部担当でしたので、どんな経緯でカワサキに来たのか詳しいことは解りません。
はじめて藤井君に会ったのは、1965年秋のモータショーの会場で、久保和夫君が私に紹介してくれました。単に城北ライダースのメンバーとばかり思っておりました。
その少し後、MFJの運営委員会の席上で、スズキの岡野さんから「うちの藤井から辞表が出た。会社の従業員ライダーだから、引き抜きは困る。」という発言がありましたが、「うちは関係ない」「多分BSだろう」と思っていたのですが、ひょっとするとそのころ既に話があったのかも知れません。
1966年1月5日に藤井君が明石に来て終日契約の話をしています。
非常に真面目な人柄だと言う印象を強く受けました。カワサキとの契約は、「ライダーとしての契約は、マン島から帰ってからにして欲しい」という、ご本人の強い希望でマシンの貸与契約とGPマシンの技術改良に関する内容でした。
その後、量産車のキャブセッテングで困っていた時、藤井君が診て即座に直ったことがあり、契約外のことでしたが、事業部長から金一封が出たりしました。技術的な経験豊富という印象を受けました。
私にとって、藤井君は辛い思い出です。中野さんとの接点が出来て、藤井君のことを書く気持ちになりました。心よりご冥福をお祈りします。
カワサキのOB 大槻幸雄さんの思い出文(http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/173b4e301f78cc7cd94128f8cbe440b2 のコメント欄)
【2007-02-05 】
・・・・藤井君がマン島で事故死されたが、転倒後病院にに駆けつけ、医者に聞いたところ、彼は元気でピンピンしているとのことで、安心したホテルに帰って食事をとり、病院に出掛けようと思っていたら、「Sorry, He was killed]と言われ愕然とした。後に分かったのであるがヘルメットが割れていて、デグナーの経験から脳内出血と分かり、適切な手術が行われていたら救えたのではないかと痛感する。有名なマン島の医者でも誠に頼りないと、憤りとともに痛感する。
この年の藤井敏雄の事故は私のレース担当で一番悲しい出来事だったのである。
★この年の日本GPには、カワサキはあの『鈴鹿のデグナーカーブのデグナー』と藤井敏雄の二人のライダーをメインに据えて戦うように計画されていたのだが、その二人ともレース出場は叶わなかったのである。
藤井の事故のあと9月の初めには、デグナーとの契約書の検討に入るのだが、当時の川崎航空機の中で、外人それもライダーという特殊な人の契約など誰も経験がないのである。その担当は私ということで社内で聞き回ったが誰も教えてくれないので、思い余ってMFJの運営委員会で面識のあったホンダの前川さんに電話して『教えて頂けませんか』と9月10日の朝電話したら『鈴鹿まで来て頂けるのなら』と仰って頂いて、その日の2時に鈴鹿に前川さんを訪ねて、いろいろ具体的に教えて頂いたのである。
それを持ち帰って、まず日本文の契約書を造り、それを英文化して頂いたのは当時の山田煕明技術部長(後川重副社長)なのである。
9月23日には、そのデグナーが神戸にやってきて、朝ホテルまで迎えに行ったのだが、ホテルでグッド・モーニングと挨拶しただけで明石まで一言も喋らずに戻ってきた。当時は『英語など通訳が喋るものだ』と思っていたのである。
そのデグナーも9月29日のFISCOの練習中に転倒し頭部を打ち、その後明石までは戻ってきたのだが、容態が急変して生死の境を彷徨い結果は助かったのだが大変だったのである。
この辺りのことは『カワサキのデグナーの想い出』 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8a687ff9d7c79c07988ad41cbf008117 の中に記述してある。
藤井敏雄がいなくなったので、急遽ホンダの谷口尚己さんと契約することになり、それはこの忙しい間を縫って9月19日に東京で契約交渉を行っているのである。
★そんないろいろあったカワサキが初出場の日本GPだが、10月15、16の両日、FISCOで開催される初めての日本GPとして行われたのである。このGPには、『第1コーナーの須走落としと言われた下りカーブが危険』という理由でホンダが参加を見合わせた大会となったのである。
この大会に臨んだカワサキチームのメンバーは総監督中村治道・助監督渡辺準一 GPチーム監督大槻幸雄 JRチーム監督安藤佶郎 マネージャー 古谷錬太郎 で全体を総括されていたのは 山田煕明さんなのである。
ライダーはGP 関係は、シモンズ・谷口尚己・安良岡健 ジュニアチームは 三橋実・金谷秀夫・歳森康師などだった。
このレースで歳森康師は転倒して鎖骨を折ったりしたのだが、その歳森に私が掛けた言葉は『よかったな』だったのである。ホントにこの年のライダーの転倒は年初の鈴鹿での三橋実の転倒入院に始まっての大事故ばかりで、『鎖骨でよかった』というのは私の偽らざる実感だったのである。
★このレースの当日、GPでは入賞は果たせなかったが、ジュニアの250ccではA1R に乗る金谷英夫が、ヤマハのガリー・ニクソンと壮絶なバトルを展開したのである。 金谷がレースをスタートして2年目のことなのである。
この写真はFacebook にアップされた古澤幸二さんからお借りしたものである。
当時は私は広告宣伝課にいて、ライダーたちの契約金なども広告宣伝費の中から捻出していたのだが、ライダーたちはすべて広告宣伝課の嘱託という身分だったのである。そんなこともあって当時のライダーたちは広告宣伝写真のモデルにもなってくれたし、A1の開発に当たっては当時の名神高速でのテストに参加して、いろんな意見なども言ったりしていたのである。
A1のレーサー開発もレース運営委員会でその開発が決定され、当時は日本では敵なしの状態だったのだがこのレースにはヤマハがアメリカのトップライダーガリー・ニクソンを連れてきたのである。当時のヨーロッパ中心のライダー規定では、多分アメリカのトップライダーたちもジュニアの資格で走れたのではないかと思うのである。 当時はGPライダーたちはみんな真っ黒の皮つなぎだったのだが、ガリ―・ニクソンだけが赤いつなぎで異様な感じだったのである。
流石に速かったが、金谷とは壮絶なトップ争いを展開し、このレースのベストラップは、ニクソンと金谷が同タイムで二人が記録しているのである。3位の三室とのタイム差を見ると如何に二人が速かったのかが分かるのである。
レース2年目にしてアメリカのプロライダーと互角に渡り合った金谷の快挙だと思う。ホントに金谷は『世界で一番早いライダー』だったかも知れないと思ったりしている。
★ 『世界の金谷』と言われた金谷秀夫だが、『金谷秀夫 』で画像検索するとこんな画面が現れる。
金谷秀夫とカワサキの関係は、特別なものがあったのである。
金谷がカワサキに入ってきたのはこの前年で、この年はカワサキ2年目の金谷なのだが、この10月の日本GPを走った時点では、金谷は『保釈中の身』だったのである
この年の4月17日、金谷は突然神戸葺合署に逮捕されるのである。
カワサキに入ってくるずっと以前の事件があって、それにちょっと関係したとあっての逮捕だったのである。彼の恩師神戸木の実の片山義美さんにも『何とか彼が走れるように』と頼まれて、私は当時のレース関係の中村さんなど先輩に相談すると、日ごろの金谷の態度がよかったからだと思う。みんな『何とかしてやれ』と仰るのである。
『何とかする』と言っても何ともする方法が見つからないのだが、一か八か、神戸地方検察局に担当検事を 当時のレース監督の安藤さんと二人で、訪ねたのである。『その事件のことはともかく、現在は金谷はいい奴だから何とかなりませんか』と言ったら『君はどこに来て何を言ってるのか解っているのか』とボロカスに怒られたのだが、帰り際に検事はポツリと一言『嘆願書を出せ』と言ってくれたのである。
金谷の嘆願書は、当時の塚本副本部長筆頭名義で製造部門の人たちなど100名以上の名を連ねたものになったのである。当時の川崎航空機の上の方はいま思っても偉かったなと思うのである。工場の方たちの署名が多く集まったのは、守田工場長が『助けてやれ』と言って頂いたからだし、塚本さんもその筆頭に署名をして頂いたのである。
普通のサラリーマン社会では、なかなかこうはならないのではなかろうか?
5月9日に金谷は保釈になり、それ以降のレースは保釈の身で出場していたのである。そしてその年の11月8日、神戸地方裁判所の第5法廷で行われた裁判の証人として私は法廷に立ったのである。傍聴席には中村治道さんが来られていた。
多分、『嘆願書』が効いて、裁判の結果は『執行猶予』となったのだが、カワサキにいる間は執行猶予期間中で、海外のレースには出られなかったのである。
金谷はホントに『いい奴』だった。短い間のレース担当でライダーたちともいろいろ付き合ったが、金谷とは特別だったし、彼はそんなこともあって、SPA直入のオープンの日には、ヤマハさんの予定を断って大分県の直入町まで足を運んでくれたりしたし、晩年の金谷秀夫はカワサキのZ1会のゴルフコンペのメンバーでもあったし、写真にあるようにカワサキの昔の連中と一緒にいる機会が多かったのである。
私も金谷と一緒に過ごす時間がいっぱいあってよかったなと思ったのだが、あまりにも早く逝ってしまったのである。
★この年、昭和41年が『大変な年』だったことはお分かり頂いたと思うが、10月の日本GPが終わって、カワサキのレース体制も創成期の第1期が終わり、新体制に生まれ変わるのである。
大槻さんは、市販車の開発も担当されるようになったし、安藤さんはアメリカ市場に、私も10月末に東北6県を統括する仙台事務所を新設するようにと異動の内示があったのである。
11月には本来の広告宣伝業務の東京モーターショーなどもあったのだが、そこに連戦連勝のF21Mの展示をすると言ったら、安藤佶郎さんが、『やめとけよ』と仰るのである。『なぜ?』と聞いたら、そのエンジンを開発した安藤さんとしては、あれは『125BIの市販車のエンジン』がベースで、それを150㏄にボアアップしていたのを、『さらに238ccのレーサーのエンジンにしてなお持ってる』というのは、最初の125ccのエンジンがいかに『過剰品質設計』だということなので、設計屋としてはカッコ悪いというのである。
安藤佶郎さん、と言えば『怒って怖い』という印象が強いのだが、そんな繊細な一面もお持ちだったのである。
★私が会社勤めの中で『技術屋』さんと親しくお付き合いをしたのも、ライダーと出会ったのも、広告代理店の優秀な本社メンバーから『マーケッテング』を教えて貰ったのも、この広告宣伝課を担当した4年間だったのである。それは私のその後の仕事をする上で、他の方が経験されなかった分野だけに、非常によかったと思っている。
マーケッテングの基本コンセプト『差別化』を自分の生き方にしようと思ったのもこの時期だし、カワサキの二輪事業のブランドイメージも、間違いなく他の3社と『差別化』された独特のものになっているのは、この時期を支えた方たちが、みんな『差別化』された、ちょっと変わった独特の方たちで構成されていたからだと思っている。
カワサキの二輪事業は、この年海外のアメリカ市場では、シカゴにAmerican Kawasaki が設立され、アメリカ市場向けのA1発売で意気上がっていた年である。当時シカゴにいたのは田崎雅元さんだし、所謂世に言われる『7人の侍』の時代なのである。
そして翌年からは、技術メンバーとして、これもレースチームから安藤佶郎さんが新しく参加されることになるのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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