★ 昭和39年(1964)は、東京オリンピックのあった年である。
新幹線が開通した年でもある。7月25日に東京ー大阪間に初めて試走車が走ったりした。 オリンピックを機会に東京に高速道路が出来たり戦後の日本から急速に復活しようとしているそんな時期だった。
カワサキの二輪事業は、前年度の日本能率協会の市場調査の結論が、『この事業続けるべし』と出て、その条件の一つに広告宣伝課を創ることがあげられ、その担当を指名されることからこの年が始まっている。
それまではカワサキ自販で担当していた広告宣伝業務が明石の川航に移管され、その予算も年間1億2000万円もの額が、本社開発費で計上されることになったのである。
それまでカワサキ自販で広告を担当されていた小野田滋郎さんと一緒に広告代理店を選考する作業から始まったのである。
小野田滋郎さん、あのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんである。小野田さんと一緒に仕事ができてその戦略・戦術・戦闘論など多くのことを小野田さんから学んだ。
サラリーマン生活で、私に一番影響を与えた方が小野田さんだった。ずっとのち、私が39才の時、フィリッピンにお兄さんの捜索に出発された時に、私が日記に書いている文章である。
『小野田滋郎。この人が自分に与えた影響は大きい。
思想的にも、今仕事をしている実務的なやり方も、それに対する態度も。小野田さんは自分がサラリーマン社会に入って以来、この人にはとてもかなわぬと思った数少ない人の一人である。
陸士出身、文学を愛し、酒を好み、人間味あふれる人柄、わるく言う人もいるが、自分は小野田滋郎の物事に向かうときの純朴さと一徹さを見習いたい。
小野田さんの兄さんなら、最も親しかったという兄さんなら、一徹にただ一筋にこの27年,銃を磨き,弾の手入れをし、最後の一人になっても戦う気持ちを失わなかったであろう、と思う。
陸軍中野学校出身のこの秀才の生き方は、その思想の善悪はともかくとして、一筋にひたむきなところに共感を覚える。
箸袋 寛郎と今も 還らぬ子
小野田さんのおふくろさんが、正月に詠んだという句。このお母さんの話も、小野田さんの話によく出てきた。
その滋郎さんも10月24日、現地に調査と呼びかけに出発した。
新聞に笑う小野田さんの笑顔、人をひきつけずにおかぬ笑顔である。
人生には、いろいろ影響を受ける時期もあり、また人もいる。
自分の39年の人生を振り返ってみて、野球部の先輩の山本治さん、小野田滋郎さん、岩手の久保社長、宮川部長などは、現在の自分の生き方を支えている。
小野田滋郎さんが、あの温かみのある笑顔を更にくしゃくしゃにして、兄とともにタラップを降りて、日本の地を踏まれることを祈るものである。(10月24日夜)』
その小野田さんはこの年の3月にカワサキを離れられたのだが、その送別会の席で私にくれた言葉は『雑音に耳を貸すな』だったのである。いろんなことをやればやるほど『雑音』が入るものである。 自らの『生き方』を信じて小野田さんの教えを守って、生きてこれたと思っている。
★日本自体が、新しい時代に入った年だったが、『青野ヶ原モトクロス』で完勝したのちカワサキのモトクロスが実質的にスタートしたのがこの年からである。前年の5月、青野ヶ原で勝って以来、レースは会社公認のイベントとして、私の係の川合寿一さんが担当して、小野田滋郎さんが三橋実に創らせた『カワサキコンバット』で新人選手の育成が始まったのである。
『カワサキコンバット』には三橋実のほか安良岡健、梅津次郎、岡部能夫などがいて関西では『神戸木の実クラブ』から歳森康師、山本隆などのメンバーでスタートしたのである。
レース運営は、エンジンは技術部、それをマシンに仕上げるのは製造部に新しく作った『レース職場』その中心は兵庫メグロから来た松尾勇さん、そしてレース運営費用とレースマネージメントは広告宣伝課が担当するという三者の協働体制だったのである。まだ、カワサキにレース監督などはいなくて、レース現場での実戦指揮は三橋実が担当していたそんな時期だった。
私はこの年の6月MCFAJの全日本モトクロスが富士の裾野の朝霧高原であったのだが、そこで初めてモトクロスレースなるものを見たのである。このオープンクラスで山本隆くんが『優勝』して、カワサキは初めて全日本の優勝を果たしたのである。
50年経った今も、お付き合いのある山本隆くんだが、この年初めて彼と出会っているのである。この6月のMCFAJ 全日本での山本の優勝は、カワサキのレースチームにとってホントの自信らしきものに繋がったのだと思う。
青野ヶ原の1位から6位までの圧勝は「雨によるもの」だったし、その後地方レースでの連戦連勝も、地元ライダー相手のものだったし、この年初めて行われた相馬ヶ原MFJ 第1回モトクロスグランプリでは6位にも入れなくて、自信を失いかけていた時期だったのである。
そしてこの年の秋 東京オリンピック開催の開会式の当日から伊豆丸の山で開催されたMCFAJ 全日本モトクロスには、カワサキは4種目中3種目に優勝して、『赤タンクのカワサキ』の名を確固たるものにしたのである。
当時の大スター久保和夫・荒井市次を従えて真ん中に立ったのが山本隆くんである。
この時期は、広告宣伝課は、中古の下取りのヘリコプターを持っていて、レース場にもヘリ帯同で出かけていて、この全日本でも開会式の花束贈呈などの行事に協力などしていたのである。
ヘリ? と思われるかも知れぬが当時のヘリは新品では1200万円ほどしたのだが、耐用年数が2年ほどなので中古のヘリの簿価は10分の1ぐらいになってしまうので、その運用費用だけでヘリを飛ばすことが出来たのである。そんなヘリを持つようなきっかけは、上司がジェットから二輪に来られた苧野豊秋さんだったので、苧野さんが全部段取りをされたのである。
当時はヘリの部門はまだ明石にいて先日85J1で富士登山に挑戦したことをご紹介したがそのメンバーの一人古谷武くんは、ヘリのメカニックだったのである。
★この年は、広告宣伝課の第1年目であったしレースにもイベントにも猛烈に動いた年だったと思う。
8月にはテレビの人気番組、『源平芸能合戦』に川崎航空機ー三洋電機 で出場したりした。
後、川重社長にもなった 田崎雅元さんとは、この年からいろんなことで協働している仲間なのである。
『源平芸能合戦』では応援団長みたいな役をやってくれたし、フラダンスを踊る女子を連れてきてくれたりした。またレース関係では、当時は製造部にいて『レース職場』を担当してくれていたのである。
★ 星野インパルのホームページの 星野一義のRacing Careea にはこのように記述されている。
星野一義が カワサキコンバットに入ったのが前年なのだが、この年の11月までは、レースには出ていなかったし、当日もコンバットの運転手として現地に来ていたのである。
モトクロスに優勝してもなかなか新聞などでは報道されないので、スポニチと組んでスポニチ主催のモトクロス開催を図った広告宣伝の一環としてのレースだったのである。
当日の朝の練習で岡部能夫が荒井市次とぶつかって指を骨折したので出場できなかったのだが、星野が岡部の名前のままレースに出場したのである。 開始間もなくジャンプのあと転倒して『脳震盪』で救急車で病院に運ばれたのだが、午後戻ってきて『もう一度走らせてください』というのである。
それが『岡部の名前で走った』星野の初レースなのである。
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/2c675dcd0452f47d1bcb2c104fc56513
★ 昭和39年、私は新しい仕事に、ホントに頑張って没頭していた1年だったと思う。
90㏄の中間車種がよく売れてた時期でカワサキも秋に『85J1』という機種を出すのだが、この機種のモトクロスのデビューが9月10日にあった山梨モトクロスで、私は初めて現場マネージメントをやることになったのだが、『それはどうも頼りない』と当時の製造部の高橋鐵郎係長が、田崎雅元さんをつけてくれたのである。
田崎さんとのコンビでの初レースで、田崎さんも印象に残っているのか、川重の社長になってからもその時の彼のつなぎ姿の写真を送ってくれたりしたのだが、残念ながらなくしてしまっているのである。
広告宣伝と、レースばかりで、二輪事業がどうなっていたのかは、全く頭になかったような1年だったのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/