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カワサキの二輪事業と私 その31  昭和37年(1962)

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 ★昭和37年(1962)、いまから54年も前のこの年は どんなことがあった年なのか?

あの鈴鹿サーキットが完成した年で、11月4日には日本で初めての第1回全日本選手権ロードレースが開催された年なのである。

 

    

昨今のネットは、探せばいろんなデーターがあって、『本物のロードレース in 鈴鹿』

 http://www.f1-stinger.com/special/mwc/chapter02/talk11/

というこんな記事を見つけたのだが、そこにはこんな記述がある。

 

1962年11月、《鈴鹿》オープニングの全日本選手権ロードレース。ノービス250ccクラスでは、ヤマハの三橋実、片山義美両選手が1~2位を独占。さらに、もうひとつのハイライトとなる350ccクラスでも、ヤマハの片山義美選手は、2位のホンダCR77(榎本正夫選手)に、1分以上の差をつけて優勝した。

 

三橋実も、片山義美も、この年はまだヤマハだが、三橋は翌年は厚木でカワサキコンバットを創っているし、片山義美の神戸木の実クラブからも、その傘下のライダー歳森康師がカワサキと契約することになるのだが、そんな二人が優勝しているのである。

この第1回ロードレースをカワサキの製造部の人たちがバスを仕立てて観戦したのが、カワサキの明石工場でのレースプロジェクトがスタートするきっかけになるのだが、私自身はちょうど1ヶ月前の10月に、広告宣伝の看板設置などのことで鈴鹿サーキットを訪ねているので、カワサキでは間違いなく『一番最初に鈴鹿に行ったのは私』なのである。

ちなみにFISCOも1966年に開場するのだが、第1コーナーの『須走落とし』が危険だと MFJの運営委員会でもめにもめたのだが、その現場検証に4輪だったが『試走』した時も私は現場に行っていて、何となくご縁があってこの二つのサーキットをカワサキの中で最初に観たり、走ったりしているのである。

 

★この前年の昭和36年12月16日付で、私は新しく創られた単車営業課に異動しているのである。

当時は、メイハツ・メグロを吸収して『カワサキ自動車販売』という販売会社を設立し、その社長には川崎航空機の土崎専務が兼務され、高野専務(川航部長)とのお二人で経営されていたのだが、その下のメンバーたちはすべてメイハツ並びにメグロから移ってきた人たちだったのである。

明石に出来た単車営業課は、カワサキ自動車販売に対しての出荷・販売を担当する業務で当時出荷していた機種は 125B7 と 50ccモペットのM5 の2機種だったが、このほかに井関農機の『タフ50』というモペットも明石工場では作っていたのである。

 

 

 

 

カワサキ自販の販売先は、当時はまだ日本各地に自己資本の代理店が存在していてそこを通じて『サブ店』と称されていた自転車屋さんを中心とする店に委託販売していた、そんな時代であった。メーカーの数も100社以上もあった乱立時代からは少なくはなってはいたが、三菱重工も、富士重も、トーハツも、まだ二輪車やスクーターの生産をしていたのである。

カワサキは二輪事業をスタートしたばかりで、最初に世に出した125ccB7がフレームの欠陥でどんどん返却されて、私が営業部に異動した翌月の昭和37年1月の生産台数は、出荷台数より返却台数が上回ってマイナス17台の生産台数を記録したりしたのである。

エンジンの専門家はいたのだが、フレーム関係は素人だったのだろうと思う。どんな欠陥だったのかは覚えていないが、兎に角フレームが悪くて毎日全国からの返却が続いたのである。

 

★当時は125cc以上には、『物品税』が掛けられていて、それは工場の門を出る時に掛けられ戻ってきたときには『戻入』として掛けられた『物品税』が戻されるルールなのだが、その手続きは税務署職員の立ち合い検査もあって厳しくなかなか大変なのである。

『工場出荷時の状態』であることが原則だから、メーターが少しでも回っていたらダメなので、製造部の連中がメーターを巻き戻したりする『中古車屋』みたいなことをやっていたのである。

営業に異動したその日に、小野助治次長から『物品税を研究してくれ』が最初に言われた指示なのだが、ホントに誰も何にも解っていなくて大変だったのである。当時は カワサキ自販の明石事務所が通称4研という工場内の建物にいたのだが、ここに出荷しても工場内だから物品税を掛けられないのだが、カワサキ自販への売り上げ台数にすべて掛けて支払っていて、これは全部間違いなのである。

物品税は、大阪国税局の直接の管轄でその監査の時にそれを指摘されて、『知りませんでした』と言ったら『君は知らなくても、川崎航空機が知らなかったというわけにはいかない。物品税は申告税だから体刑もありうる』などと脅かされたりしたのである。

ことほど左様に誰も経験のない『新事業』で、何にもできていなかったのである。この年の半ばごろになってから、返品などが続くものだから生産台数・出荷台数が解らなくなって、最初からの台数を調べてももう一つはっきりしないのである。 今なら考えられないことだが、辻褄の合わない台数は私が勝手に調整して、延べ台数の資料を纏めたりしたのである。兎に角、B7は大変な車だった。工場は返却車で膨れ上がって、置き場所に困ったほどである。

そんな状況だから新規事業も不安定で、この年だけでも3回ほど職制変更があったりしたのである。ただ、私はこんな混乱期の業務を独りで裁いていたので課長や次長には大いに頼りにして貰って、2回目の職制変更の時からは係長は課長の兼務で『係長心得』のような形にして貰っていたのである。

 ボーナスの査定時に『古谷は満点』と次長が言っていたと先輩の坂口さんが教えてくれたのだが、その満点の査定の夏のボーナスは53,800円というそんな時代なのである。ちなみに冬のボーナスの平均値が川崎重工が60,000円、川崎航空機が58,000だったのである。

ニュースで言ってたが今年のメーカーのボーナスの平均は88万円だとか、時代は変わるものである。

 

★私の仕事としては『営業業務係』ということになっていたのだが、入社6年目だが6人ほどの部下がいて、非常に『広い範囲』を担当していて、毎月の営業生産連絡会議の事務局も担当だったが、土崎専務も出席されるので、営業サイドのカワサキ自販の発言力が圧倒的で、製造や技術サイドは、B7がクレームがあったこともあり謝ってばかりの、今では考えられないような末端上位の雰囲気だったのである。

私はその事務局として資料関係の作成やその議事録も担当していて、めちゃくちゃ忙しかったのである。

私事ではこの年中に結婚することにしていて、小野助治次長に仲人をお願いしていてそれは引き受けて頂いたのだが、忙しすぎて結婚式の日取りがどうしても決められないのである。どんどん伸びて12月になり、それも月の前半はダメだということで、12月21日という年も押し詰まった日時に決まったのである。

今年が結婚54周年だから、54年前の話なのである。

 

★この1年は、全く初めての二輪事業という仕事であったし、あっという間に1年が過ぎてしまった感がある。

B7の販売結果がもう一つで、カワサキの二輪事業がどうなるのかもよく解らぬうちに過ぎて行ったのである。

10月末にはモータショーも開催されて、『125B8』が発表されたのだが、まだこの時点では特に目立った機種でもなかったのだが・・ この125B8 がカワサキの二輪事業の命運を分けた機種になるのである。

この年のスターとの時期は、小野助治次長・北澤課長・壱岐係長だったのだが何度も職制変更など人事異動もあって、樽谷課長になったり、坂口・室・長谷川さんなど優秀な人材も単車に集まってきたし、後、カワサキのレースを最初に担当した川合寿一さんなども勤労からやってきて、岐阜の産業車両なども扱うことになって行ったのである。

そんな変化の中で、私自身は業務担当ということで『体のいい何でも屋』で何でもやらされていたのである。

企画・営業・営業管理・広告宣伝・サービス・会議事務局などなどいまなら何十人もの人がやってることを私以下の数人でやってたので、『その忙しさ』は普通ではなかったのである。

そんな忙しかった1年だったが、12月21日から翌年の年始まで『結婚休暇』を2週間も取れたので、私にとっても想い出多い『昭和37年度』だったのである。

一言で云えば『大変な年』だったのである。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 


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