★昭和36年(1961)12月、今から55年前になるのだが、私は川崎航空機に初めてできた単車事業部の営業部に異動した。
そこでは、カワサキ自動車販売という川崎航空機がカワサキ明発を傘下に収めたカワサキの単車を売る販売会社との取引が主たる業務だったのである。現在のカワサキ・モータース・ジャパン(KMJ)の前身で、カワサキ自動車販売―カワサキオートバイ販売ーカワサキ・モータース・ジャパンとその名称は時代とともに変わってゆくのである。
ご縁があって私自身は、3回この販社に出向しているのだが、『カワサキ自販』・『カワ販』・『KMJ』ともそこに籍を置いていた懐かしい会社なのである。
カワサキ自動車販売という名称は、当時は「トヨタ自販」などもあって、カワサキも4輪の開発も手掛けていたので、そんな名称になったのだろう。社長は川崎航空機の土崎専務が兼務され、高野専務(川航の部長)が中心で展開されていて、このお二人だけが川崎航空機籍で、あとはメイハツやメグロの販売部門ににおられた方たちばかりで構成されていたのである。
神田岩本町にその本社事務所があって、大阪にも博多にも支店があったのである。
私は入社以来初めて川崎航空機籍以外の方と仕事をすることになるのだが、その方たちは川﨑航空機のメーカーの人たちととは全く違った異色な人たちばかりで、それが非常に新鮮だったのである。
そんな中でも、小野田滋郎さんは高野専務の信頼絶大でその片腕として、総務課長と広告宣伝課長を兼務され、カワサキ自販を切りまわしていたという感じだったのである。当時の神田岩本町の本社には後に私が仙台で東北6県を担当した時の直接の上司宮川弘さんや池田・小林・宇田川・石塚さんたちもおられたのである。
私と同い年のカワサキの有名人、平井稔男さんは当時はまだ兵庫メイハツの営業だったそんな時代なのである。当時の川崎航空機籍でこのカワサキ自販時代のことをお分かりの方はもう殆どおられなくなってしまっているのである。
★この当時は、明石工場で二輪車の一貫生産が始まったばかりで、まだ海外の輸出もなかったし、カワサキの生産する二輪車の販売先は、125㏄B7 と50ccM5 がカワサキ自販で、井関のタフ50が井関農機だったのである。
カワサキ自販の国内の販売網は、各県に二輪の問屋さんの代理店が存在していて、そんな問屋さんに販売していたのだが、まだメーカーの資本など入っていない自前の代理店ばかりで、それぞれの代理店の力は相当なもので、中でも新潟カワサキや、鹿児島カワサキなどの社長さんは『怖くて有名』だったのである。
工場見学などにこれら代理店がやってくると、当時のB7あたりがクレームなどあったからだが、技術部のエンジニアたちは、ボロカスにやられていたりしたのである。
この時代の営業生産連絡会議にも、明石工場から技術部・製造部・営業部など関係部門が出席していたのだが、土崎社長や高野専務が出席されるカワサキ自販が断然上で、明石部門は販売会社の意見を尊重していろんな展開がなされていたのである。
代理店とメーカーの関係がこのようなものであったが、その代理店が取引する末端の販売店がまた強くて、『サブ殿様のデーラー乞食』などと言われる言葉もあったような時代だったのである。
現在の世界中の販売会社が『メーカ資本』が入った系列販社になってからは、販売会社はメーカーの部下のような関係が『当たり前』になってしまっているのだが、本来の量産事業は50年前のこんな形態のほうが、『本来の姿かな』と思ったりするのである。
現在は、全く逆で末端の市場が解っていない『工場サイド』が頂点にいるので、ある意味マーケッテング・マインドのない人たちの意思で事業全体が動いているような気がしてならないのである。
★ただ、こんなカワサキ自販や、まだ地方代理店が強かった時代をご存じの高橋鐵郎さんが事業本部長をされていた時代は、アメリカのKMCでも国内のカワ販でも、本部長の高橋鐵郎さんがかっての『カワ販営業』を若い頃に経験されていて、『マーケッテング・マインド』を強く持たれていたので、末端の販社の発言権もそれなりに強かったし、明石の工場サイドも柔軟に対応してくれていたように思っている。
1990年代事業本部長の高橋鐵郎さんがカワ販の社長を兼務、私が専務として国内責任者を務めた時期は、当時の国内『カワ販の発言力』は事業部を動かしたり、事業部の部課長を集めた『研修会の講師』を私やカワ販の部課長が務めたりしたこともあったのだが、高橋さんや私が引退した2000年以降は、その反動もあってか『工場主導の体制」になってしまった感があるように思えてならないのである。
事業本部長のご挨拶の中にも、販売店や末端の人たちを視野の中心に置いたアプローチがなされていて、これは単に広告代理店が作った原稿ではなくて、高橋さんご自身の言葉として語られていたのである。
★ そんな1960年代前半の『カワサキ自販』の高野専務の片腕として全体を動かしていたのが、総務課長と広告宣伝課長をしていた小野田滋郎さんなのである。
そんな小野田さんについては、今までにも私のブログの中で何度も取り上げていて、『小野田滋郎 雑感日記』と検索するとこんなページが現れるのである。
その中の一つをご紹介してみたい。
小野田滋郎さん。
カワサキのレースの創生期にライダー関係で三橋実を引っ張り、カワサキコンバットを事実上作った人だと、私は思っている。
あのフィリッピンから帰国した小野田寛郎中尉の弟さんである。
1972年10月22日の日記にこんなことを書いている。
「フィリッピンのルパング島で、生き残りの日本兵が島民と銃撃戦、一人が死亡した。一人はジャングルに逃亡。その生き延びた一人は小野田寛郎、和歌山出身、その母の書いた文章をみて、ひょっとしたら小野田滋郎さんのーーと思った。テレビを見ていると小野田さんが出てきた。」
小野田さんは、もうその時はカワサキには居なかった。
小野田滋郎。この人が自分に与えた影響は大きい。
思想的にも、今仕事をしている実務的なやり方も、それに対する態度も。小野田さんは自分がサラリーマン社会に入って以来、この人にはとてもかなわぬと思った数少ない人の一人である。
陸士出身、文学を愛し、酒を好み、人間味あふれる人柄、わるく言う人もいるが、自分は小野田滋郎の物事に向かうときの純朴さと一徹さを見習いたい。
小野田さんの兄さんなら、最も親しかったという兄さんなら、一徹にただ一筋にこの27年,銃を磨き,弾の手入れをし、最後の一人になっても戦う気持ちを失わなかったであろう、と思う。
陸軍中野学校出身のこの秀才の生き方は、その思想の善悪はともかくとして、一筋にひたむきなところに共感を覚える。
箸袋 寛郎と今も 還らぬ子
小野田さんのおふくろさんが、正月に詠んだという句。このお母さんの話も、小野田さんの話によく出てきた。
その滋郎さんも10月24日、現地に調査と呼びかけに出発した。
新聞に笑う小野田さんの笑顔、人をひきつけずにおかぬ笑顔である。
人生には、いろいろ影響を受ける時期もあり、また人もいる。
小野田滋郎さんが、あの温かみのある笑顔を更にくしゃくしゃにして、兄とともにタラップを降りて、日本の地を踏まれることを祈るものである。」
本当に、小野田さんには影響を受けた、戦略論の基本も教わった。
今も、お元気である。毎年頂く年賀状の文章は、逆立ちしても真似の出来ない素晴らしいもので、いつも楽しみにしている。
いつまで経っても、そんな文学青年みたいな小野田さんが、また魅力である。
そんな『小野田滋郎』さんはあのフィリッピンの小野田寛郎さんの実弟で、陸軍士官学校卒の英才である。自衛隊を経てメグロからカワサキ自販に来られて、高野専務を援けて中心的な役割を果たされていたのである。川崎航空機の単車営業に来てすぐ小野田さんとお会いして、いろんなことで援けて頂いたし、広告宣伝のことではいろんなことで教えて頂いたのである。
その時の、小野田さんの仕事ぶりは、その後の『私のサラリーマン生活』で出会ったことがないほど強烈で、当時はまだ小野田さんのお兄さんの寛郎さんはまだ『フィリッピンで生きているらしい』という噂段階だったのだが、『小野田さんのお兄さんなら間違いなく生きている』と私が信じたほど強烈だったのである。
カワサキのB7時代に、カワサキ自販でMCFAJの全日本モトクロスに川崎航空機におられた井出哲哉さんなどと組まれて『カワサキの初めてレース』をやったのは小野田滋郎さんなのである。 後、川崎航空機の製造部の有志達が『青野ヶ原のモトクロス』に出場して優勝し、工場中が大騒ぎになった時にも小野田さんが『最初に取り組んだ人たちの苦労も知らずに・・・』とぽつりと私に漏らされたのが印象に残っているのである。
そして、昭和38年(1963)1月、カワサキが本格的に二輪事業に取り組むことを決定し、日本能率協会が上げたその条件の一つに『広告宣伝課を創ること』が挙げられた時、小野田さんは ご自身の居る場所がないと判断されて、その後任に『私を指名されて』カワサキを去られることを決心されたのだと思うのである。
広告宣伝課を創ることが決まってから3ヶ月、広告代理店の選定ほかその基本的な項目について誠心誠意私を援けて手伝って頂いて、昭和38年3月末に突然『カワサキを去られる』ことになるのである。
川崎航空機で『初めてできた広告宣伝課』は、1億2000万円もの膨大な予算を3年間、川崎航空機本社の開発費として用意して頂いて、集まった広告代理店も日本を代表する電通・大広・博報堂など、その担当部門も出先の営業所ではなくて、本社部門の本格的なスタッフメンバーだったのである。
そんな本格的なマーケッテング専門家たちを相手に、横に『小野田滋郎』さんがついていてくれたお蔭で、まだ係長にもなっていない20代後半だった私が実質『広告宣伝課長』の役割が果たせたのである。
これが昭和39年2月の日記の纏めである。
この年の1月から3月末の間に、カワサキ自販の広告宣伝課の業務を引き継ぐと同時に、新しい広告代理店の選定のために、小野田さんが創った設問は、 『貴社の創造的能力を図示説明してください』というものだったのである。
広告代理店なのだから、誰にでも解るように自社の創造的能力がどのように優れているのか? 明快に図示説明せよという選定試験問題には、電通・大広・博報堂など日本を代表する広告代理店も、『こんな設問をしたところは今まで皆無』とびっくりしたのである。
『図示説明せよ』とは小野田さんの慣用句で、私が理屈を並べたりすると『それを図示説明してみろ』と仰るのである。ちゃんと本当に理解していれば、『明確に図示』出来るのだが 、考えが纏まっていないとなかなか図示することは難しいのである。
小野田さんの図示はまさに明快で、例えば、陸軍士官学校仕込みの『戦略・戦術・戦闘』の違いを非常に明確に図示説明されたりするのである。
★小野田さんとは、本当に短い間ではあったが、非常に密度の濃いお付き合いであった。
『できるまで、何度徹夜をしたことか』
私は小野田さんが担当していたカワサキ自販の広告宣伝課と同時に、カワサキのレースシステム『カワサキコンバット』を引き継いだのである。
ヤマハから三橋実を「引っこ抜いて」厚木に作った「カワサキコンバット」があったから、レースなど初めての経験のカワサキもその導入期がスムースだったと思っている。安良岡健も梅津次郎も・岡部能夫・星野一義も、カワサキが彼らと個人契約をする前に『カワサキコンバット』のメンバーだったのである。
最初に個人契約したのは関西の歳森康師で、関東は三橋実との『カワサキコンバット』との契約からスタートしているのである・
そんな小野田滋朗さんのやり方を、「引き継いで」川崎航空機流にアレンジしながら、カワサキの広告宣伝も、レースも何とか形になっていったのである。
3月末明石で小野田さんの送別会を数少ないメンバーでやったのだが、
その時小野田さんが私にくれた言葉は『毀誉褒貶は忘れろ』『雑音に耳を貸すな』であった。
私はこの小野田さんの言葉は忘れずに『雑音に耳を貸さずに生き抜けた』と思っているのである。
(『カワサキ自販』に始まったこの国内の販売会社は、土崎専務ー神武事業本部長―岩城事業本部長ー田中誠社長ー塚本本部長ー青野本部長ー高橋本部長ー田崎本部長などカワサキの世界の販売会社の中でも唯一などずっと事業本部の本部長クラスが社長を兼務した独特の販売会社だったのだが、いつの日にか川重の部長クラスが社長を務める「普通の販社」になってしまったのである。)
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/