★ 昭和42年(1967)の1月から私は仙台に東北6県の代理店を担当する仙台事務所を創ることを命じられて、入社以来初めての転勤となるのである。 (50年も前の話なのでその積りでお読みください。)
転勤も初めてだったし、それから4年間経験した代理店営業も初めてだったのだが、この4年間で川崎重工業の単車事業部ではとても経験できない、いろんなことに巡り合えて、その後の私の二輪事業展開の基礎に間違いなくなっているのである。
当時はまだ、各県に自前の代理店が存在していて、まさに取引先のお客さんなのだが、急激な各メーカーの販売台数増大で各代理店の資金繰りにも変化があって、所謂『メーカー系列化』の流れが生まれようとしている微妙な時期だったのである。
当時の川崎航空機籍のメンバーでこんな代理店営業を責任者として直接経験したのは、ホントに数人いるかいないかで、本格的に4年も経験したのは「私だけ」だと言ってもいいのである。
元々東北6県は、当時の『実用車のカワサキ』時代は最大の市場だったのだが、その担当はカワサキ自販の東京から、元メイハツの方が出張営業で回っていたのだが、地元代理店社長会から当時の岩城良三本部長に『仙台事務所を創ってほしい』という要望が出て、岩城さんが即座に『Yes』と言われて、私にその指示が下ったのである。
★まさに『仙台事務所を創れ』という命令だけを頂いたのだが、その仙台には事務所もなければ、部下もいないし、住む家も決めねばならない。そんなことをしてくれる人は誰もいなくて、すべてがゼロからのスタートだったのである。
まず、事務所をどこにするか? 当時は川崎航空機の仙台出張所が仙台駅前にあったのだが、そことはどうも仕事の中身が違うし取りあえず宮城県の代理店であった宮城カワサキの中に、机を置かして頂いての独りでのスタートだったのである。
『一人』というのはどうしようもなくて、『どうすればいいか?』と明石に聞いたら、『新聞広告を出して女子を採れ』というので、新聞広告を出したら、すぐ女子が面接に来たので、とにかく一番最初に来た人を採用したのである。それが菊地さんだった。その後東京から宇田川・海老沢・石塚・田中さんなども仙台にやってきて何とか形はできていくのだが、何時までも宮城カワサキに事務所を借りているわけにもいかず、土地を捜して購入し、倉庫と事務所を建てたりしたのである。明石から仙台の倉庫に運び、そこから各地に配送したのである。1年間万台近くの販売量だったので毎日のように専用車が到着していた。
いまは 仙台プラザ となっているらしい。
当時の仙台バイパスに面していたのだが、300坪ぐらいの土地を捜せと会社はいうものだから、斜めの土地しか見つからなかったのである。当時の不動産屋は『川崎航空機なんだから幾ら大きな土地を買っても認可になる。買ってから転売すれば幾らでも儲かる』というのだが、会社は300坪に拘るものだから斜めの土地になってしまったのである。
当時の『土地成金』はみんなそんな具合で大きくなっていったらしい。ホントかと思われるかも知れぬが当時は水道は来ておらず、井戸水だったし、前のバイパスも車などまばらで、A1Rのレーサーをそこで走らせたりしてたのである。
白バイなどはみんなメグロの時代で仙台の白バイの修理はみんなここに来てたから、捕まったりする心配は皆無だったそんな時代だったのである。
★これは昭和42年2月21日から28日までの日記の纏めである。
東北6県の販売店会議が代理店ごとに開催されて、どこも100人以上が集まるそんな会合で私の役目は『ご挨拶というかカワサキの方針説明』を連日することだった。
大槻さんとあるのは「大槻幸雄」さんで車の技術説明に来て頂いて、ここでも1週間一緒に過ごしたのである、大槻さんもまだ係長の頃である。
大槻さんも前年度の秋にレースを離れて、初めて市販車の開発を担当されたころで、この1週間ご一緒した時に『世界一のクルマを創る』と言っておられたから、その構想が『Z1』であったに違いないのである。そのクルマはこれから8年後に世に出ているのである。
大勢の人前で話をしたのは、宮城カワサキが初めてだが、自分の感想で『気負いすぎ・・』と書いている。結構考えて『いい挨拶』をした積りだったが、翌日の秋田の会合では、宮川部長が私の話の半分ぐらいを話されてしまうのである。これには参ってしまったが、私が『話の原稿』など用意せずに大体どこでも『ぶっつけ本番』で話が出来る様になったのは、この『宮川弘』さんの訓練?のお蔭なのである。
八戸と津軽で別々に行われているのは場所が離れていることもあるのだが、夜酒の席に『八戸』と『津軽』が同席すると昔戦った仲だから『喧嘩になる』というのである。当時はまだそんな昔の『藩』の影響が色濃く残っていたりしたのである。
★そんな日記の纏めの『岩手カワサキ』の項に、『開始は2時間遅れたが、内容とムードは最高、流石売り上げ日本一』と書いているが、この時の「岩手カワサキの印象」は強烈極まりないものだったのである。
開始は3時なのに集まりだしたのは5時ごろからという強烈な『岩手時間』で、カワサキの方針などどうでもよくて酒が飲めるのが楽しみなのだが、『久保さんには世話になってるからちゃんと売る』のは確りと徹底されているのである。
私の人生で、久保克夫さんから得たいろいろなものが、私の『カワサキの二輪事業対応の核』になっていることは間違いない。
『私の恩人、久保克夫さん』と題して、こんなブログをアップしているので、そのまま再掲してご紹介したいのである。
私の恩人、久保克夫さん 2008-03-22 16:53:26 | カワサキ単車の昔話 現役時代、何をやってきたのかなと振り返ってみると何だろうかと思う。
いろんなことをやってきた。
レースや広報や経営再建や、イベント、ユーザー対策、サーキットや自動車学校、結構多岐に亘っているが、
一番長く時間を掛けたのはやはり販売網、販売のための新しいネットワークの創造であったと思う。
『新しい』と言うのは二つの意味がある。
一つは、業界にとって初めての新しいスタイル、これは主として国内市場であった。
もう一つは、カワサキにとって初めての経験、これはCKD市場の開拓のための販売網創設であった。
こんな販売網ネットワークの創設の、最も基本的な部分を私に教えてくれた恩人は元岩手カワサキ社長の久保克夫さんである。
早く亡くなってしまわれて、お礼を言う機会もなかった。
久保さんには私が仙台で初めて営業を経験した時にお会いした。
当時の岩手カワサキは、『岩手県は日本のチベット』と久保さん自身が言われていたが、そんな貧乏県ではあったが、カワサキで毎年決まって日本一の販売実績を誇っていた。
当時はまだ『実用車のカワサキ』の時代で東北6県が最大の市場であったが、その中でも岩手は頭抜けていたのである。
久保さんは車の運転はダメで、もっぱら私が運転手であの日本一広い岩手の販売店訪問を久保さんと一緒に経験しているうちに、久保さんのいいところを自然のうちに教えて貰った。
岩手の日本一の原動力は『販売網である』
『販売店への対応は』
『戦略的な対応は』
『システムでの対応』
『人間関係の維持』
『厳しさと優しさ』
これらのことを私は久保さんに学んだ。 別に理論家ではなかったが、ちゃんと確実に実践されてされていた。
まだ、1965年の頃でマーケッテングなどもそんなに言われない時代に、
その戦略的な対応と岩手独特の差別化された経営の仕組みが、その実績のベースであった。
岩手以外こんなシステムを採っているところは皆無であった。
例えば、当時は販売店に対しては全て委託であった。そんな時代に岩手だけは実質委託だが、全て買い取り方式であった。
1.委託したら直ぐ売上げ伝票を発行する。
2.それに対して毎月請求書を発行する。
3.売上に挙げるから粗利が発生する。
4.粗利が発生したり、在庫が少なくなるがそれは別途社内的に経理対応策を採る。
これは当時は、金の回収が悪かった。盆払いや秋の収穫時や年の最後などまで回収が伸びるのが普通であった。
岩手の場合は、委託の時点で請求書が来るので、それ以降、販売店は『ずっと借りている』と言う意識なのである。
委託期間は何ヶ月にもなるので、何ヶ月も借りている意識が強く、ホントに売れたらその時点で支払いが始まるのが普通で、その分回収は実質的に早かったのである。
1.同じことでも、ちゃんと考えて仕組んだら、効率がよくなる。
2.人の付き合いは、貸しを作ったほうが有利である。
3.意識的に貸しを作る、小さくてもいいから、それも数多く造る。
4.貸し>借りの方程式を堅持する。
5.いろんなことはあるが、ベースは優しさ、誠実、そんな人間らしさ。『人の気持を読む』こと。
これらはその後の私の販売網政策の基本となった。
理屈の上では、『業界で初めて』、中味としては『非常に厳しい』そんなものが多かったが、『人の気持ちを読んで』実行した。
『計算をして』『仕組んで』『人の気持ちを読んで』『一生懸命やることだ』と久保さんは教えてくれたような気がする。
久保さん以外にも東北時代は いい人に会っていっぱい学んだ。
何にも知らなかったのにいっぱい覚えた。 宮川さん、宇田川君、石塚君、秋田の雄幸さん、岩手の山本君、青森の小林さん。
みんな、メーカーや大企業ではお会いできなかった人たちである。
改めて私の恩人たちにお礼を言いたい気持である。 ★岩手カワサキからも、久保さんからもいっぱい学んだのだが、自前の代理店であった『岩手カワサキ』もメーカーの資金が入って『系列化されて』何にも解っていない販売会社の人たちに、久保さんの仕組みも戦略もみんな潰されて、最後はめちゃくちゃになってしまったのである。 『古谷さん、どうにもならないよ』と最後のほうは久保さん、半ば諦めていたのである。 『末端の人の気持ち』が解らぬ人が、自分勝手な想いで末端のホントのことも解らずに、『上から目線』でやってしまうから無茶苦茶になるのである。 サラリーマンは、基本的に自分のほうから『上から目線』でものごとを考えて、『相手側からの発想』が出来ない人が殆どで、反省がないから『過ちは』何度も繰り返されるのだと思う。 TOPは、事務所にずっと座って報告など聞いていないで、時間があれば「販売店」や「現場最前線」を回ることである。現場を回らないから『おかしくなってしまう』のである。 TOP が現場を回ったら、『部下の報告の質』がおのずと変わってくるのである。 久保さんは、時間があれば私を運転手にして、広大な岩手県を回っていたのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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