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カワサキ二輪事業と私 その25  忍者の伊藤彰さんと特約店制度

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★ 昭和45年(1970)は大阪万博の年で、アメリカのKMCが出来て3年、車で言えば W1・A1・H1の時代である。

昭和44年に川崎重工の3社合併があって、『50ccモペット』を止めて、ようやく『中大型スポーツのカワサキ』に脱皮しようとした時代であった。

それまでは『実用車のカワサキ』として、50・125cc中心で、その主力市場も東北や九州だったのだが、『中大型スポーツ』となるとやはり都会の大市場への進出となって東京・大阪などに新しい販売網構築をという方向転換を目指していた時期なのである。

私は4年間の東北・北海道担当から昭和45年10月に大阪母店長として近畿地区の各営業所を担当し大阪は営業所長を兼務することになったのである。当時の大阪は、主力市場の東北などに比べると売ってた台数は比べ物にならないくらい少ないし、それ故にカワサキ主力の店など皆無の状況だったのである。

当時大阪でスズキを主力に販売してた船場モータースの岡田博さんに、『東北でどのくらいカワサキは力があったか知らぬが、大阪では「ホンダは別格、世界のヤマハ・日本のスズキ・明石のカワサキ」ぐらいのもんですよ』とおちょくられたような状況だったのである。

当時は、販売の主力は都会とは言え50ccのモペットで、販売店と言ってもほとんどが自転車屋で、販売方式はすべて『委託方式』で、弱小カワサキでも取引する自転車屋さんは大阪で500店~700店もあったというか、何店あるのか解らない状況だったのである。ただ500店あっても部品取引だけで1年に1台も売らぬ店とも取引していた時代なのである。ホンダさんなどは全国5万店の販売店などと言ってた時代なのである。

50ccなら兎も角、250㏄以上の中大型スポーツ車をそんな方式で売るわけにも行かず、具体的に何か新しい販売方式をと模索はしていたのだが、なかなか具体的には動いていなかったそんな時代に、カワサキの営業所として直接販売店との取引は私も初めての経験だったのである。東北や九州の地方の主力市場は県ごとにまだ自前の代理店があって代理店への営業だったのである。

従って私の営業相手は東北の代理店の社長さんから、販売店や自転車屋さんのおやじさんになったので、幾ら『うるさい』と言ってもそのレベルは代理店の社長さん方に比べると大したことではなかったのである。

 

★ いまの 株・忍者の伊藤彰さんとも、ひょんなことで初めてお会いしたのである。

伊藤さんと初めて会ったのは昭和46年3月17日で、大阪の南地区の販売店を回った帰り道に、南地区を担当していた竹内優さんが、『堺におもろい店がありますが寄ってみますか』と予定外で訪ねたのが、『伊藤モータース』なのである。若し竹内さんがそんなことを言いださなかったら、伊藤さんとのご縁もなかったかも知れないのである。

伊藤彰さんをご存じの方はお分かりだろうが『まさに一直線』の人で若かったし威勢はいいし、まだどこのメーカーとも正規の取引はなかった、ひょとしたら中古屋さんだったのかも知れないのだが、私はその一途さが一目で気に入って、『カワサキとの取引』が始まるのである。

 

  

 

今の株・忍者のホームページにこんな写真が載っている。

これは懐かしい写真である。当時取引のある何百店もの店の中から主力にしようという店には営業所が費用を負担して看板を取り付けていったのだが、このパイプ枠のカワサキの布製の看板はいかにも貧弱である。当時カワサキでも 普通はもっとまともな看板を設置するのだが、看板屋曰く『あの家に一般の看板をつけたら家が持たない』というので、仕方なく『伊藤モータース』独特の布製の看板となったのである。

こんなことから始まった伊藤さんとの取引なのだが、義理堅い人で『古谷さんと竹内さんには世話になった』と今でも毎年何かを、それも何回も送ってくれるのである。

 

★先日『KMJの新販売網政策について』というブログをアップして、カワサキの新販売網の新しい店舗なるものを一度見に行こうと、

 『カワサキ特約店推進の発起人の一人で、今でもカワサキの販売店をやってる 株)忍者の伊藤さんを誘って彼の意見も聞いてみたいと思っているのである。本件はまだ伊藤さんには言っていないし彼はネットは見ないけど、こう書いて置けば彼の耳に入るはずである。 私はいつでも大丈夫だから伊藤さんのご都合のいい日時に合そうと思っている。』

と書いたりしたのだが、何人もの方が即刻伊藤さんに連絡したようで、翌日電話が掛かってきたのである。

カワサキ一筋で『ウソが言えない、伊藤彰さんの率直な意見』を聞いてみたいのである。電話で一緒に行く日時は決まったので、近いうちに大阪の新店舗でお会いできることになったのである。

 

そんなことで『カワサキ特約店制度』がどのような経緯で出来上がってきたのか、当時を思い出しながら伊藤さんのことを書こうと思っているのである。

 

 

 

なぜ、店を見るのに伊藤彰さんを誘ったかというと、彼は店舗にはめちゃ関心があるのである。ちょっと思い立つと直ぐさわるので、これは同じ場所だと思うがこんなにいろいろと改装しているのである。

その中でも最初に造った店舗は、まだ伊藤モータースも大変な時代で床に敷くコンクリートはミキサー車の余ってどこかに捨てるものをタダで使ったので、何時来るかは相手次第でいつ完成するかも分からなかったそんな時代があったのである。

 

★それは兎も角、昭和46年から48年度にかけて取り組んだ特約店制度は間違いなく販売店との協働作業だったのである。

大阪を担当してすぐ創ったのが、『大阪共栄会』で、文字通り『共に栄える』ことを目標に販売店との協働作業をスタートさせたのだが、その中心になってくれたのが『船場モータース』の岡田博さんだったし、徳野3兄弟の浜寺モータースのおやじさんや、伊藤彰さんや、西形さんなど大阪の『うるさ型』ばかりが顔を揃えて、いろいろとうるさい意見を言うのを聞きながらも、基本的な構想は崩さずに創り上げていったのである。

その検討会は、当時の大阪営業所の2階で夕方から始めて、毎回夜中まで掛かったりしたのである。伊藤さんは岡田博さんの右腕みたいな存在で、口うるさいことこの上なかったのだが、結構ちゃんと正論を述べたし、私も自説をきっちりと述べて共栄会から『新しい特約店制度』を創り上げていったのである。

 

新しい特約店制度の骨子はいろいろあったが、こんなことだったと思っている。

● 殆どが自転車屋の中で、二輪車を中心に扱う「二輪専門店網」を創る。

● その店の選択方針の第1は、現状の販売力などではなくて『店主』が特約店制度を理解し想いがあれば合格であった。

● 大阪の500店もあるという取引先から、共栄会員の中から手を挙げた人と契約する。

● 店数は関係なく『大阪共栄会の会員で大阪営業所のカワサキの販売台数の60%』の実績になったらカワサキは決心して実行に移すということにしたらすぐ60%を超えたのである。

●検討会の段階では、販売店というより身内扱いで、その時点の大阪営業所のクルマの原価なども公表したので逆にマージンアップなどは言わなくなってしまったのである。

● カワサキ専売でなくていい。むしろほかのメーカ―の250cc以上も積極的に売って大阪市場の中大型車の70%をカワサキ特約店で売ることを目標にしてほぼ達成したのである。ホンダのクルマがほかの販売店で売れるよりカワサキ特約店で売れるほうが店の力が付くという発想であった。

● 契約の内容は手形発行を可とするが、その時代ではとても考えられない基本的に担保物件の提供、土地・建物がない店は保証金の提供、その保証金も何年かの分割手形でOKという方式で何百万円の単位を3年~5年の分割手形で頂いたのである。

● これは当時の販売店は、もう一つ資金繰りが解らずに、手元に金があると『飲んだり遊んだり』するのである。保証金としての『何百万円』は、その店の積立金(貯金)になるはずだという発想なのである。結果的にこの保証金の額は全国で1億円を超すレベルになって後、カワサキオートバイ販売は銀行からの借入金なしの無借金経営を続けるのだが、それが出来たのはこの保証金制度が思いもよらぬ結果に繋がったのである。

● そして最初に契約した店は大阪で25店で、カワサキは当時の大阪の約500店を切り捨てて、特約店制度はスタートしたのである。

● そしてその契約は、まさに契約で店の要望も入れた『手書きの契約書』で1店づつその内容は異なっていたのである。

● そして予想以上に特約店が育ったのは、昭和48年3月にあのZ2が販売されて、特約店の経営にいい結果をもたらしたのである。

 

 

★特約店制度のスタートは、昭和47年(1972)9月1日に、大阪と京都と名古屋の岡崎地区でスタートし、順次全国に展開していくのだが、全国展開までは相当の年数掛かったのだが、その間私は

● 昭和45年10月1日  大阪母店長

● 昭和47年3月  大阪・名古屋・北陸 を含む 中日本営業部長

● 昭和48年1月  東京・名古屋・大阪 担当の直営部長

● 昭和49年6月  カワサキオートバイ販売本社 企画部長

としてカワサキの『特約店制度』がほぼ全国展開になるまで、その地区の広がりとともに、担当範囲が広がって昭和49年にほぼ全国が完成し、川重企画部に復帰したのである。

その間ずっと一緒に手伝ってくれたのは、大阪営業所時代の営業の古石喜代司くんであったし、特筆すべきは各地域の特約店制度説明会には、大阪の船場モータースの岡田博さんが、私と共に講師を務めて頂いたのが、各地域の販売店に対して非常に説得力があったのである。そのようにカワサキの特約店制度は販売店との協働作業であったし『大阪共栄会』の思想そのものであったのである。

 

★ 各地域の特約店のあり方も一様ではなく、地元の兵庫県では、有望な候補店がなかったので、川崎重工業の単車事業部やカワサキオートバイ販売の従業員の中からの『のれん分け制度』を創って、兵庫の1号店は財満君の『灘カワサキ』から始まって、姫路カワサキ・明石カワサキ・西宮カワサキ・エントリー・キヨ などなどみんなカワサキのOBたちなのである。

大阪でもその後、いまは立派な店になっている。八尾カワサキの本店は、かっての大阪東営業所だったし、吉田純一さんのオールカワサキは大阪南営業所だったのである。このお二人もカワサキのOBなのである。

当時は、弱小だったカワサキの販売網を育成するために販売会社と特約店がともに協働して創り上げた歴史のある「カワサキ独特」の販売網なのである。従って、私などはカワサキの販売店に対してはズケズケと『本音でモノが言える』し販売店の人たちもちゃんと仲間として認めてくれるのである。

 

★そんな中でも堺の 株・忍者の伊藤彰さんは、『カワサキ特約店』以前の『カワサキ共栄会』時代からの仲間であり、ご本人自体も、それを自負しておられるのである。

常に思ったことをズケズケと言うし、それが正論に近いので伊藤さんを担当する営業は大変だとは思うが、伊藤さんに気に入って貰って『酒でも一緒に飲むようなら』その営業は『合格だ』と私は思っているのである。今、KMJの本社の中枢にいる細谷君なども、伊藤さんに可愛がってもらった一人で、よく一緒に飲んでた酒場から夜突然、私宅に『酔っぱらった上で電話を頂いた』ものである。

私も現役時代、伊藤さんには結構厳しく言って、一番最初の段階から『認証工場を取れ』と要求したりしたのだが、彼はそれに応えて、ちゃんと『認証工場の資格』を取ったのである。なぜ私がそのようなことを彼に要求したかというと、当時新たに岡崎で契約した『ヤマハオートセンター』杉浦さんに、『特約店』とエラそうに言ってるが『認証工場』も取らずに法に違反して修理をしていると指摘されたのである。杉浦さんとも私は親しいのだが、彼もズケズケいうだけあって、ヤマハオートセンターが全国1店でスタートした時に、認証工場も取っていたし、安全運転コースも持っていたのである。

確かに、杉浦さんの云う通りなのだが、現実になかなか認証工場など当時は取れなかったので、それに立ち向かえるのは伊藤彰さんぐらいだと私は思ったのである。こんなことは伊藤さんにも言ったことはないのだが、せめて一店でもいい努力してムツカシイ認証工場を取った店がある実績を残したかったのである。

ただ、この件でその後私は伊藤さんに大きな借りが出来て、『古谷さんに言われて認証工場取ったけど、カワサキとの契約条件で認証工場が一つも反映して貰えない』と何度文句を言われたことか。

『それはそうなんだが』いまの時代は認証工場の上の『指定工場』を要求する時代になったので、まあよかったかなと思っているのである。

 

★私自身はカワサキの販売網については長年に亘って関係したが、今現在何か普通になってしまった『カワサキ専売店』と『卸禁止』を販売店に要求したことは一度もないのである。

特約店自体がカワサキオンリーを自主的に目指すのなら兎も角、お客の立場から言えばカワサキ以外の車種もその店で買えるほうがいいに決まっているのである。また、この自由経済の中で卸禁止など、独禁法の精神に違反する方策など、特約店に求めるのは間違っていると今でも思っている。

現在は、日本のユーザーたちの消費行動の中にネットの通販は、当然の販売で『店舗店頭だけの対面販売』などとユーザーの満足を考えない販売は、時代遅れも甚だしく、『昔の米屋』や『タバコ屋、酒屋』の販売と同じ形態で今の現代でまかり通っているのは『二輪業界』だけなのである。そんなユーザーの満足を考えないメーカーの独善的な『上から目線』が今の二輪販売を小さくしてしまっていると思っているのである。

全然違う、Z1、Z2などのマニアたちは、二輪販売店などあまり関心がないそんな時代なのであるのに、新車だけが販売店や店舗だけに拘わるのが間違ってると思っている。

ネット販売と卸禁止をなくすだけでも、二輪の販売は拡大するのである。カワサキが国内にジェットスキーを導入した時点で、あれだけ簡素な販売網で大量に売れたのは、『卸販売』が主流であったからなのである。

なぜ、突然こんなことを言うのかというと、2,3日前伊藤さんから突然電話があった時、伊藤さんからネット販売のことを指摘されたのである。今は何か、販売方法は販売会社が独善的に自分に都合のいいように決めてしまって、末端のユーザーの想いなど完全に無視してしまっているのである。

販売店のことも考えねばならぬが、真っ先に考えねばならぬことは『末端のユーザー』のことなのである。

アメリカの『トランプ』さんが勝利したのは、そんな末端の想いをネットでダイレクトに伝えたからなのである。

日本の二輪業界が縮小の一途をたどっているのは、末端のユーザーとのダイレクトコミユニケーションが無料で出来るネットの世界を無視しているからだと私は思っていて、伊藤彰さんとはそんなことを電話で話したのだが、近く大阪で正式オープンするカワサキの店舗を見せて頂くついでに、伊藤彰さんともそこでお会いしてまた50年前の昔のように、忌憚のない意見交換ができればいいなと思っているのである。

いまの現役の方は、あまりご存じないかも知れぬが、『カワサキの販売網』はこんな独特の歴史の上に出来上がっているのである。

 

 ★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

  https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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