★『二輪文化を伝える会』http://2rin-tsutaeru.net/about/ の松島裕さんは日本のレース界の色々な貴重な資料を集められている。
そんな松島裕さんから1967年のシンガポールGP 優勝の写真を頂いた。1967年と言えば昭和42年、桜が咲いているから4月頃だろう。
この写真の提供者は谷口尚己さんだという。
あのホンダの谷口尚己さんなのである。
1966年まで私はファクトリーチームのマネージメントを担当していた。1966年のFISCO で初めて開催された日本GPには谷口尚己さんとカワサキは契約をしてそれを担当したのが私なのである。このGPには鈴鹿のデグナーカーブに名を残すデグナーとも契約をしたのだが、事前の練習中に転倒負傷してカワサキのデグナーは実現しなかったのである。
この66年のFISCOの大会に臨んだカワサキの布陣は、総監督中村治道・GP監督大槻幸雄・セ二アチーム監督安藤佶郎・マネージャーが私でこのプロジェクトの総責任者が山田熙明技術本部長だったのだが、このレースを最後にカワサキのレース関係の創世期とも言える第1期は終わって新しいメンバーにバトンタッチされたのである。
その新チームのロードレース緒戦とも云えるシンガポールGP 初優勝の記念写真なのである。
松島さんからは『この写真に写っている方の名前を』と言うご要請を受けたので、大槻幸雄さんにも手伝って頂いて、苗字だけは何とか、解ったような気がする。
左から、
中村治道・清水屋辰雄・黒河内肇・山田熙明技術本部長・八田・守田正直工場長・塚本・堀江・塚本碽春本部長・多賀井・岩城良三常務・井手哲也・糠谷監督・福田・青山・松本博・水町泰造・加藤・吉田忠・北条・大槻幸雄・加藤 ちょっと自信のない方もいるのだがまず間違いないだろう。
この時期レースには一番情熱を燃やしておられた中村治道さんの音頭で撮られた写真だと類推する。中村さんはあの青野ヶ原のモトクロスでも旗を振られた方である。
★この当時のカワサキはモトクロスでは F21M時代で連戦連勝の最盛期で業界トップを走っていたと言える時期ではあったのだが、ロードレースについては1965年5月にジュニアロードレースに山本隆が参戦したのが初めてで、GPレースに正規に参戦したのは1966年のFISCO の日本GPにシモンズ・谷口尚己・安良岡健のメンバーで出場したのが初めてだったのである。
このレースはMFJの運営委員会でいろいろ議論されたが、ホンダがFISCOの第1コーナー「須走落とし」が危険ということを理由に出場を見送ったりしたのである。当時私はMFJの運営委員をしていたのでその経緯はよく承知しているのだが、後、事故があってあの第1コーナーは改修されたのだが・・・
カワサキはGP125では入賞は果たせなかったが、セ二アロードレースでは A1・250 に乗った金谷秀夫がヤマハのギャリ―ニクソンと壮絶なトップ争いを展開し、惜しくも2位になったのだが、このレースのベストラップは珍しく金谷とニクソンが同タイムで二人の名前が記録されているのである。
その翌年のシンガポールGP優勝は、モトクロスの青野ヶ原優勝に匹敵する快挙であったのだろうことは間違いないのである。
★この写真が当時はカワサキの契約ライダーであったとはいえ、谷口尚己さんの提供に依るものとは大いに感謝なのである。
シンガポールGP参戦に関係された方たちでの記念撮影には、創世期のカワサキのレースを支えたメンバーも多数おられるのだが、この機会にカワサキの創世期のレースがどのようなメンバーで、どのように運営されていたのか、その概略を纏めておきたい。
私の知る限りのカワサキのレースの歴史を時系列に振り返ってみたい
● カワサキが最初にレースの世界に登場したのは125B7 の時代でこれはカワサキ自販の小野田滋郎さん(フィリッピンの小野田寛郎さんの実弟)や川崎航空機では井手哲也さんが個人的に関係されていた。MCFAJの全日本モトクロスにそんな記録が載っている。
● 昭和36年11月(1961)鈴鹿サーキットがスタートして第1回の日本ロードレースが開催されたのだが、このレースを川崎航空機の製造部門のメンバーたちがバスを仕立てて観戦したのである。中村治道・高橋鐵郎さんたちが参加されてレースに火がついたのである。
● そして、翌年5月に青野ヶ原のモトクロスに非公式な製造部門チームで出場し1位から6位までを独占する快挙となったのである。然しこのレースで勝ったのは雨のお蔭で、防水対策がよかったのでカワサキのチームだけがマシンが止まらずに他メーカーのマシンはみんな水で止まってしまったようである。山本隆くんなどもこのレースではヤマハで出場していたようである。
●鈴鹿のバスツアーも青野ヶ原のモトクロスも陰で支えたのは兵庫メグロの西海社長で、二輪のことが解っていないカワサキに子飼いの松尾勇さんを製造部に送り込んでモトクロスマシンの制作にあたらせたのである。事実F21までのカワサキのマシンはエンジンは技術部だがマシンに仕上げたのは製造部のレース職場の松尾勇さんだと言って間違いない。
●青野ヶ原のレースの圧勝でレース活動が会社の中で正式に認められ、営業部門でライダーなどの契約もスタートした。私のいた係の担当だったが、直接担当してくれたのは川合寿一さんである。カワサキの契約第1号は神戸木の実の歳森康師くんである。関東では小野田滋郎さんが三橋実くんにカワサキコンバットを創らせて三橋実とのグループ契約と言う形でスタートした。
●当時はまだMCFAJ のクラブマンレース全盛期で関西は片山義美の神戸木の実・三橋実の関東はカワサキコンバットに所属するライダーたちでのスタートだった。ちなみに第1回の鈴鹿のロードレースの250クラス優勝者が三橋実・350クラス優勝者が片山義美だったのである。
● 昭和38年(1963)当時には歳森・山本・三橋・梅津・岡部などのライダーで主として地方レースで優勝を重ね『赤タンクのカワサキ』と言われたりしたが全国レベルではまだまだだった。
● 昭和39年(1964)カワサキの二輪事業本格的進出が宣言され、広告宣伝課もできて私が担当、年間1億2000万円の予算が3年間本社の開発費で出されたのである。私の年間所得が40万円の時代であったから1億2000万円は使いきれないほどの予算だったのである。私がレースに直接かかわりだしたのもこの時期からで、レース予算もこの広告予算で支出され、ライダーたちは広告宣伝課の嘱託として契約されていた。ちなみに当時のライダー契約額はカワサキは非常に高く山本隆くんなどは私の年俸の3倍の120万円で契約していたのである。
この年の春のMCFAJ全日本で山本隆がオープンクラスで優勝し、これが初めてのカワサキの全日本クラスの優勝となった。秋伊豆丸の山での全日本ではカワサキは4種目中3種目に優勝してモトクロスでは確固たるものとしたのである。ちなみに東京オリンピックの開会式の日だったのである。
●昭和40年5月(1965)には、鈴鹿サーキットで開催されたジュニアロードレースに山本隆が出場し、ホンダ勢に続いて3位入賞を果たしてカワサキの中でも一気にロードレースに火がつくのである。このジュニアロードレースは会社には黙ってロードレーサーを創り上げモトクロスの予算で出場したのである。マシンの素材を提供してくれたのは田崎雅元さん、マシンを創り上げたのは松尾勇さん、運営費を出したのは私なのである。
●これで一気に火がついて翌月6月のアマチュア6時間耐久レースには会社から正規にカワサキコンバット・神戸木の実・川崎航空機のテストライダーチームの3チームで、初めてレース監督に大槻幸雄さん、副監督に田崎雅元さんで出場することになったのである。神戸木の実は山本隆が前月にジュニアロードレースに出場したためアマチュア資格がなく、歳森康師が相棒として連れてきたのが金谷秀夫なのである。
●昭和41年1月には藤井敏雄と契約してヨーロッパにGPレースを転戦するのだが、マン島で事故死することになり、デグナー・藤井敏雄などで日本GPに臨む体制だったのだが、それは実現しなかったのである。
この年モトクロスではF21Mをヘリコプターのクロモリのパイプを使って創り上げその後、連戦連勝を重ねたのである。
★この時期のレースチームを支えた組織は、技術部がエンジン・車体は製造部のレース職場・ライダー契約や運営費は広告宣伝課と言う3つの部門の協働体制で、『レース運営委員会』が組織されその事務局を私が担当したのである。
技術部 山田熙明部長 GP関係渡辺・大槻幸雄・渡辺 国内レース関係 安藤佶郎
製造部門 中村治道課長 高橋鐵郎
営業部門 苧野豊秋部長 事務局 古谷
で運営され、製造部のレース職場の管理が田崎雅元さんで、そのメンバーは松尾勇・福田尚己・藤原良・吉田忠など、そして技術部の担当が水町泰造というメンバーで、現場のレース運営は広告宣伝課の川合寿一・大西健治くんなどが担当
契約ライダーは ロードレース 三橋実・安良岡健・金谷秀夫
モトクロスは 山本隆・歳森康師・梅津次郎・岡部能夫・星野一義
ここまでが当時の正規のレース関係者だと言っていい。
当時のノービスライダーとしては、清原明彦・従野孝司・木村夏也・西信之・増田耕二・金子豊などのち日本のレース界を支えたメンバーのほか、数えきれないほどのメンバーを抱えての活動だったのである。
こういう贅沢な活動が出来たのもひとえに本社開発費のお蔭であり、新しく引き継いでくれた新チームは通常通り事業本部予算に戻ったのでその運営は苦しくなったのは当然なのである。
★創世期のメンバーたちは高橋鐵郎さんは製造部から国内のカワ販に、大槻幸雄さんは技術部の市販車開発に、安藤佶郎さんはアメリカに私はカワ販に新しく創った仙台事務所にそれぞれ異動して、引き継いでくれたレースチームは糠谷監督、岩崎茂樹マネージメント体制に代わったのである。
ただ従来のメンバーは、レースなど初めての経験者ばかりで、二輪車についても、そんなに解っていなかったのだが、糠谷さんはメグロ出身で、ノウハウにも詳しいだけでなく二輪に乗せてもライダー顔負けのテクニックの持ち主だったし、岩崎茂樹は川崎航空機が二輪を手掛けるずっと前からのハーレーのユーザーでその二輪理論はまさにプロのレベルだったのである。
そんな新チームのスタートを飾る優勝がシンガポールGP 優勝だったのである。
カワサキのレーシングチームはその後、モトクロスがKXと称される時期に完全に技術部門に移管され、百合草三佐雄監督の下、世界を含めた本格的なレース運営チームとなりGPレースなどでも全盛期のKR時代に移っていくのである。
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