★ 二輪レースから4輪に転向したレーサーは特に創成期には多かったように思う。
私がマネージメントしていたカワサキの二輪のライダーたちもまず歳森康師が日産に移って、すぐあの星野一義がそれに続いたりした。
当時の神戸木の実クラブの総帥片山義美さんは二輪と4輪をともに現役として操るレーサーだったが、その弟の従野孝司もレースのスタートはカワサキのモトクロスであったことご存じだろうか?
Wikipediaにはこんな記述がある。
従野 孝司(よりの たかし、1950年10月19日- )は日本の元レーシングドライバー。兵庫県出身。片山義美の実弟(異父弟のため名字が異なる)。千葉県在住最初は2輪モトクロスからレース活動を開始。実兄である片山義美が主宰した神戸木の実チーム(カワサキ系2輪チーム)で腕を磨く。同チームには後に4輪でもライバルになる星野一義や歳森康師が在籍していた。4輪に転向し兄・片山が所属するマツダと契約。マツダのワークスドライバーとして活躍する。サバンナRX3などのツーリングカー、富士グランチャンピオンレース、グループ5仕様のRX7、グループCカーによるル・マン24時間レースなどで、常にロータリーエンジンのマシンで活躍する。ル・マン24時間レースには通算11回出場した。しかし1992年の秋、バブル崩壊でマツダがレース界から撤退したことをきっかけに引退。マシンの開発能力に優れたレーサで、マシン挙動を正確にエンジニアに伝えるとともに、自らのアイディアをマシン開発に反映させていた。特にマシンセッティングを変更した場合はその変更内容がタイムに確実に反映されるレーサーであった。
当時のカワサキのレース予算は本当に潤沢にあって、山本隆・歳森康師・金谷秀夫・三橋実・安良岡健・梅津次郎・岡部能夫・星野一義の契約ライダーのほかに特に関東のカワサキコンバットには月間20万円の運営費を渡して若手ライダーの育成などを目指したので若手のライダーたちは何人いたか解らぬほどいっぱいいたのである。
清原明彦・木村夏也・西信之・増田耕二・金子豊・など日本のレース界を支えた選手たちがいて、その中に従野孝司もいたのである。清原はずっとカワサキに残ったが、それ以外の選手たちは、他メーカーで名を成した人たちが多かったのである。
そんな従野孝司くんはモトクロスから4輪に転向し兄、片山義美と共にマツダで活躍したのは周知の通りだが、3年前全日本の当時のモトクロスライダーたちの会合に顔を出して、私は40年振りにお会いすることが出来たのである。
最近になってFacebook でも繋がっていたのだが、極く最近のことだが、YORINO GrandPrix というこんな4輪レースが従野孝司主宰で開催されたようである。
レースの内容についてはこんな好意的な記述がされている。
★従野孝司くんは、カワサキのライダーたちの中でも、私にとっては特にこんな想い出のある懐かしいライダーなのである。
片山義美さんの弟さんだが、私は彼のお母さんとは何となく気が合ってお母さんと一緒にお話する機会なども多かったのだが、ある日『カワサキのレースチームに孝司を』と頼まれて、中学校を卒業したばかりだったので、即時に『Yes』と言うわけにはいかないが『1年間生産ラインに入ってくれたらそのあとはお引き受けする』ということでお引き受けしたのである。
従野孝司くんは、地味な生産ラインに1年間従事したあと当時の『レース職場に』参加したのだが、すぐモトクロスライダーとして頭角を現し、生来抜群の素質を持っていたのである。彼がレース職場に入ってからすぐ私は東北の営業部門に異動してしまったので、直接の関係は無くなったのだが、その後何回か東北でのレースに当時のノービスライダーとして出場してくれて、その度に優勝を重ねていたのである。
私は何よりも生産ラインと言う地味な作業に1年耐えた従野孝司に特別の印象を持っていたのだが、この写真は、前述の日本の創世期のモトクロスライダーたちの集まりでの、従野孝司・増田耕二くんとのスリーショットである。
増田耕二くんがカワサキにいたこともご存じだろうか?
この会合は、『二輪文化を伝える会』が主宰して 往年の日本のモトクロス界を支えた、久保和夫・山本隆・吉村太一・鈴木忠男 が発起人で開催の運びとなったものだが、その時思いもしなかった従野孝司くんがいて、これも当時カワサキにいた増田耕二くんと一緒に写した写真なのである。
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/42e8cd4511d6455a2f33abe0bbfb5d28
その時アップした私のブログで、その中からの写真なのである。
その日は、山本隆くんが最初から最後までマイクを話さず、司会を務めて神戸木の実の弟分の従野孝司くんを紹介していたがバックにあるように従野は4輪のことを話していた。
全日本MX Legend Riders 記念パーティ― と銘打ってこんな式次第で、懐かしい顔ぶれが揃って楽しい1日となったのである。
★私がレースに直接関係したのは4年間だけだったのだが、レースの世界にいたことで日本のレース界のトップライダーたちとも親しくお付き合いが出来たし、MFJの運営委員などもさせて頂いて、日本でただ1回しか開催されていない『鈴鹿24時間耐久レース』にも現場にいたりしたのである。普通の方では味わえない独特のレースの世界の雰囲気も味わえて人生が変わったような気もするのである。
ようやく1960年に鈴鹿サーキットで開催されたアマチュア・6時間耐久ロードレースにも、最初はモトクロスのライダーたち(菅谷・鈴木・岡部・歳森・梅津など)が多数出場するようなスタートの時代であったし、このレースに金谷秀夫は歳森康師と組んでレース界にデビューしたのである。
当時はまだMCFAJのクラブチームが各メーカーのファクトリーチームの中でもその核となっていて、各メーカーと言うよりもレース仲間として繋がっていたようなところがあった。
カワサキは、関東はカワサキコンバット、関西は神戸木の実が中心であったが、この会の発起人になられた城北ライダーㇲの久保和夫さんは私がレース界に入った時は既に日本を代表する選手だったが、マウンテンライダーㇲの吉村太一さんも、ヤマハスポーツライダースの鈴木忠男さんも新人の時代からのお付き合いなのである。
星野一義にしてもカワサキに入ったころはまだ17歳の少年で、吉村太一さんは確か同い年である。そんな新人たちが日本を代表するスター選手になって、私自身も何十年間も昔のままの関係でお付き合いが出来るのは嬉しいことなのである。
この催しが『二輪文化を伝える会』としてのスタート時期のイベントだったのだが、こんなご縁から3年経って『二輪文化を伝える会』の活動も、レース関係中心に纏められているのである。
この従野孝司くんのニュースを私に教えてくれたのは、ホンダに非常に関係の深い 五十嵐みゆきさん である。 https://www.facebook.com/miyuki.igarashi1
Facebook で今年の7月に繋がったばかりなのだが、レースには非常にご関心があるようなので、そんなご縁で従野孝司くんの現状なども教えて頂いたのである。
お蔭様で、ずっと昔の新人たちのことを思いだしたりしたのである。