カワサキの二輪事業と私 そのー15 KMCの話いろいろ
★昨日は新しい事務所に移ったKMCに今年から新しい社長になった田村君を訪ねてきた。
引退をして20年近くになると現役の人たちとも、一緒に仕事などした人はもうほとんどいなくて話が通じないのが普通なのだが昨日は田村君といろんな昔話をする中で、いろいろと共有できてる話がいっぱいあってなかなか楽しい2時間だったのである。
今年はKMC創立50周年なのである。
50年前には今の現役諸君はまだ入社していないし、どんな状況だったのかご存知の方はもうなかなかおられないのである。私は当時は国内を担当していて直接は関係はなかったのだが、当時のレース仲間だった田崎雅元さんや安藤吉郎さんらが続いてKMC を担当されたので、どんな状況だったのかは結構ちゃんとわかっているのである。
カワサキの二輪の長い歴史の中で、アメリカ市場は常にその中心を担ってきたし、カワサキの二輪事業はKMCなくして存立しなかったのも確かなのだが、1983年当時は一転、そのKMCの巨額の赤字が二輪事業部も川崎重工業本体までも揺るがして、大変な時代になったのである。その時代には私自身が企画を担当して再建に直接関与したので、KMCは特別の思いを持つ販売会社の一つなのである。
KMCのスタート時点は浜脇洋二社長で、Santa Ana に事務所を構えていたのである。1985年当時には、その規模も大きくなって、当初の事務所には収容仕切れずに4か所にも分散していた状況だったのである。赤字対策と言えば経費の削減だとか、面白くないことばかりで、意気も上がらないので、この機会にSanta Ana の事務所を売って新しい場所に事務所の統合をしようと当時の社長の田崎さんと二人で画策してスタートしたのである。
調べてみたら当時開拓中のIrvine なら、Santa Ana の事務所を売れば、その費用で膨大な土地が買えることが分かって、その計画が進むように本社筋に働きかけたのである。土地も新事務所も資産なので資金繰りさえつけば損益には関係ないので、当時の金で20億円で新事務所を建設したのである。買った土地は大きすぎたので数年後には半分売却したりした。
監査役などからは『赤字事業部が新しい社屋を建てるなど』と反対されたりしたのだが、結果的には借りていた3つの事務所の家賃なども浮いてそんなに負担などにはならなかったのである。
鹿島建設が担当してくれたので立派な建物が建ったし、何しろ規模がでかいので、社長室などはも東京の川重の社長室よりも立派で広かったのである。ただ当時の田崎雅元社長も川重でいえば新参部長だから、日本から事業本部長などエライさんが来られた時の部屋も同じように立派に並べて作るなどの配慮もしたのである。当時の川重関係の社屋ではその大きさも立派さ加減も群を抜いていた事務所だったのである。
そんなこともあって、かっての事務所は私にとっても思い出いっぱいの事務所だったのである。
★あれから30年、今年になって事務所移転の話があったようで、今の事務所に移ってきたのである。
以前の事務所は5号と405が一つになってすぐ上のレイクフォレストだったのだが、新事務所はそこからずっと山側に寄った、フットヒル・ランチあたりなのである。ちなみに娘婿宅はアーバインのウッドブリッジの湖のすぐ近くなのである。
そんなことで新事務所もぜひ一度見たいなと思っていたのだが、OBが訪ねてきたりすると現役は気を遣うものである。
今回も、もし社長が田村君でなかったら、私は訪ねたりはしなかったと思うのだが、田村君なら知らぬ仲でもないし、『そんなに気を遣ったりはしないだろう』とこちらに来てから、突然メールを打ってみたのである。
それも不思議なご縁で、娘婿が今勤めているJAEの社長と田村君は、二人とも単身赴任同志で、先日ゴルフをしたとかで、彼のメールアドレスはJAEから入手したのである。JAEの社長が田村君に『川重のOBの人と関係のあるのがうちにいる』とは聞いていたようだが、それがまさか私だとは思わなかったようである。
メールを打ったのは、月曜日なのだが、すぐ返事が来て、水、木曜日ならいつでもというので、昨日お伺いすることになったのである。
★ それはともかく、昨日新事務所で写してきた写真と動画である。
これは帰り際に、田村社長と二人で写した写真。
こちらはショールームの前で、3人で。
こんな歴史車が並んでいる。
まだ完成はしていないが、動画の中では『田村社長』自らが丁寧に、説明してくれている。
★田村君は、以前の事務所ができたころの入社だそうである。それから30年の月日が流れている。
彼がどんな部門を歩いたのか? そんなに詳しく知る由もなかったのだが、昨日いろいろ話してみるといっぱい接点があったようで、レースにも関係してたようだし、私が鶴谷君とでスタートさせたジェットスキーは一番下で担当したとか。
ヨーロッパにもいたので、今のヨーロッパ事務所のスタートのころの事業計画なども知っていた。イタリヤ・フランスも関係あったので当時の伊藤忠の懐かし人たちの名前もいっぱい出たのである。
そういう共通の話題が話せるのは仲間意識に繋がるのだと思う。
田村君との間で、いろんな人の名前が出た。
元ジェットスキー世界チャンピオンの金森稔君、今はKMCにいるのだが、昨日はテストに行っていて会えなかったが、金森君が二輪からジェットスキーに転向したころのことを知っていたし、今Facebook で繋がっている福井昇、大南信也、松口久美子さんたちジェットスキーの創成期のメンバーたちも知っていた。二輪では、宗和、塚本、多田のトリオでルマン24時間に入賞したときは、フランスで彼が面倒見たとか、菅生で外人ライダーを田村君が起案して走らせたときには、『古谷さんに金の面倒見てもらった』とか言っていた。そのことは忘れていたが、その時、誰だったか忘れたが優勝したのは覚えている。その担当がが田村君だったという意識は全くなかったのである。宗和孝宏とは特に若いころから知ってたようである。
こんなレース界の話題などにはついていけないトップが多すぎる中で、KMC田村社長はなかなか面白いなと改めて思ったのである。
彼のお父さん、田村一郎さんは私より3年ほど先輩で、カワサキの二輪事業にかかわった人なら知らぬ人はいないほどの有名人なのである。KMC関係でいえば、30年前『100億円の訴訟』と言われたカワサキ白バイのアメリカ市場でのワブリング問題を清原明彦を引き連れて、アメリカ全土を回り見事解決したのは有名な話なのである。
二輪もジェットスキーも、今アメリカの主力4輪バギーも、間違いなく『遊びのスポーツ』分野だし、経営トップに求められるものは『遊び心の理解』が一番だと私は思っているのである。
昼食はどこか外にでも食いに行くのかと思ったら、社内のカフテリアに案内してくれた。こんなのがあるのは知らなかった。前の事務所にもあったようだが、現役のころはいつも外に連れ出されて、日本食などを食っていたのである。そんな対応をしないといけないと思い込んでしまっているのである。
動画の中でも彼はいみじくも、そのあたりのことを言っている。
社内のカフテリアに連れて行ってくれて、私は正直嬉しかったのである。
★昨日は、田村君と二輪事業について結構まじめな話もいっぱいした。その中の一つを・・・
KMCは、今でも二輪・4輪合わせて10万台を売っている、そこそこの規模なのである
Facebook に Kawasaki USA というページ があるのだが、まずこんなページをご存知の人が少ないのである。私はこのページの『いいね』の数が15万人のころから、関心を持って見ているのだが、今やその数は10倍にもなって、140万人に近いのである。
このページのことについて、私は何回か『言っている』のだが、関心を示す方がおられなかったのである。
昨日、田村君にこの話はぜひしようと思っていたのだが、彼はよく知っていたし、人数も承知していた。こんな数のカワサキのファンたちを放っておくことは、勿体ないので何とかその利用と、対策の方向を、きっちりと検討すべきだと思っている。
末端のユーザーやファンたちと直接繋がり情報発信できる機会なのである。現在もそれはKMCの担当者がやられているのだが、より経営的な次元でのシステム化をおやりになればいいと思うのだが、非常に『肯定的』に受け止められた、『最初の人』だったのである。
KMCも『創立50周年』を迎えて、新しい社屋に移り、新しい社長を迎えてその歴史を積み重ねようとしている時期である。
ぜひ、田村新社長に期待したいなと思ったし、十分に期待できるものをお持ちと思った2時間だったのである。