★前回 ジェットスキーの本格的な事業化 ということでアップしたのだが、
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/1c9054d9f38219c730c3b108d67e4ba3
今回は、その続きである。 前回お読みでなかった方は、是非お読みになってみて下さい。
★ ジェットスキーのプロジェクトを本格的にスタートさせるキッカケは、苧野豊秋さんから国内にもレース協会JJSBAを立ち上げるべく、一緒にアメリカに出張した1984年の12月だと言っていい。
川崎重工業の単車事業本部では、ジェットスキーは正規事業にはなっていない時代で、西武自動車が逆輸入したものをカワサキの部品会社の子会社KATが年間200台ほどを販売していたのである。
苧野豊明さんは、部品会社の社長とその子会社のKATの社長も兼務されていたのだが、KATは川重から見ると孫会社で、当時はそんなレベルでの小さな事業だった。
渡米の目的はアメリカのジェットスキーのレースの協会 IJSBA(インターナショナル)から正規の認定を受けて JJSBA(ジャパン)を日本にも立ち上げようといううもので、当時のKMC社長の田崎雅元さんにその仲介を頼んだのである。
苧野豊明さんは私のかっての直接の上司だったし、田崎さんもジェットエンジン時代に苧野さんの下にいたので、この渡米の目的はホントにスムースに何の問題もなく認定されて、JJSBAは苧野豊明さんの初代会長で85年の春からスタートするのことになるのである。
このころのジェットスキー関連は、輸入元の西武自動車関係の方たちが中心で動いていて、JJSBAがスタートしたが従来の西部関連の上田、日高さんなどを中心とした運営で、特にカワサキとしての正規の動きはなかったのである。
★カワサキとしての検討が始まったのは1986年からだと言っていい。
1986年の6月には JJSBAの山中湖でのレースが開催され、私も初めてジェットスキーレースなるものを見たのだが、その前夜祭に出席して、びっくりしたのは出席者がタキシードなど着用していたり、女性たちも華やかなドレスの正装なのである。二輪のレースとはちょっと違った雰囲気で、まさにお金持ちのスポーツそのものの雰囲気だったのである。
このジェットスキープロジェクトを川崎重工業の正規の事業として育てるべく検討に入っていた矢先、7月にオーストラリアの販売会社社長の任を終えて帰国した鶴谷将俊くんをジェットスキー専任に指名し福井昇くんとのコンビで具体的に動きだすのである。
この鶴谷・福井コンビの動きは非常に素早くて、9月にはヨーロッパ市場が動き出し、86年末には国内販売体制の具体的な検討に入るのだが、独特のレースを中心にしたジェットスキーという遊びの商品の販売は、『専門店でないと将来の発展はない』と最初の段階から専門店での展開としたのである。
然し、現実には未だ年間200台そこそこの販売なので、簡単には専門店は成り立たないので、87年の1月に神戸の灘に大型のジェットスキー店舗をほぼ直営に近い形で全国で1店だけオープンさせたのである。
その店舗とは、現在AJの会長をしている吉田純一さんに借り受けて、実質大阪の二輪の販売店のスポーツ・インが動いてくれて、店舗は大きかったし構えも立派だったので、新規事業の立ち上げとしての広報力は相当なものだったのである。
そして3月には福井昇くんが、川崎重工を退社して、実質ジェットスキープラザ第1号店を明石にオープンさせたのである。
JJSBAのレース活動そのモノが、専門店を創る営業活動のような機能を果たして、たった1店からスタートしたカワサキのジェットスキー専門店網だったのだが、東京・大阪・名古屋・福岡など大都会を中心に結構スムースな立ち上がりを見せたのである。
★さらに、Jet Skyヨーロッパを設立し、国内もKATの機能をジェットスキー専門販売会社として整備し直して、鶴谷将俊くんが実質旗を振る体制としたのである。
その間、JS400/500のJS440/550へのボアアップなどもあって、ジェットスキーは世界的に好調に推移するのである。
この立ち上がりの数年間、素晴らしいテンポでジェットスキープロジェクトは進展してゆくのだが、カワサキ内部としては『古谷・武本・鶴谷・藤田・福井』のメンバーが主力で動いたのだが、カワサキ以外のいろんな方たちがその核になって頂いたのである。
大阪の大南勝也さんや松口久美子さんなどの協力が大きかったなと思っている。大南さんはジェットスキーに不思議なほど入れ込んでいたし業界の顔も広かったので、いろんな意味で大いに援けて貰ったのである。また松口さんは当時の女子のジェットスキーヤーとしては誰もが認める日本で一番のダントツのトッププレイヤーだったし、当時のジェットスキーのプロジェクトはこんな社外のメンバーたちの協力で進行したのである。
★それに今は世界チャンピオンにもなって超有名な金森稔君は、当時はまだカワサキの二輪のテストライダーだったのだが、それがジェットスキーのテストライダーに転身することで、めきめき頭角を現し、日本チャンピオンとなるのである。
金森君は大阪の月木モータースの出身だということご存じだろうか? 月木で二輪レースなどをやっていたのをカワサキの二輪のテストライダーに推薦して放り込んだのは平井稔男さんなのである。
何かのご縁で、ひょんなことで人の人生は変わるものである。
88年9月のソウルオリンピック開会式当日のハンガンのデモンストレーションには、この初期の貢献者たちがみんな参加したし、それから30年近くたった今も、大南勝也さんも、松口久美子さんも、弟さんの松口博文さんなど、当時のメンバーたちとFacebookではトモダチで繋がっているのである。
★その後金森稔君はアメリカに渡って、今はアメリカのKMCの技術部門にいるのだが、3年ほど前アメリカに遊びに行ったとき、月木さんの娘婿さんがやってたかっこいい『お鮨屋』さんでこんなメンバーで旧交を温めたのである。
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/a8488b6d3ed5982eb43ba3b11ed68f2b
★1987年までが、カワサキのジェットスキー事業の創成期と言える期間だが、
1988年10月からは,私自身が川崎重工から国内市場に3回目の出向となり、カワサキオートバイ販売グループの統括責任者としての立場に変わるのである。
89年1月からはジェットスキー専門販社としてKATからKJSに名称変更した販社の社長も兼務するのだが、この時点では未だ部品会社の子会社で川重からみると孫会社の位置づけは変わっていないのである。
この販社は常務として統括してくれた藤田孝明くんが実質運営してくれて、それを潤井、渡部くんたちが支え、彼独特のやり方で年間200台だった販売会社を最高年間7000台を売る販売会社に成長させるのである。
全国を明石と東京の2拠点だけで統括し、全国にジェットスキープラザと言う専門店を設置し、7000台を売り切ったのである。年間200台の販売でもペイしていた販社が7000台も売るとどんなことになるか想像してみて欲しい。KJSもその販売店も折れて曲がるほど儲かって、私の長い販社経験でもこんなことは初めてだったのである。
この当時のKJSの利益額(売上高ではありません)は孫会社ながら10億円に手が届きそうな利益額で、こんな会社を孫会社のまま放置するのもおかしいので子会社に格上げしようとすると、そのあたりはよく解らないのだが、利益が多すぎて、その額を減らすためにまずは親会社の部品会社に配当し、さらに川崎重工に配当して適正な利益額に修正したとういう、世にも不思議な対策をしたのである。
その成果もあって高橋鐵郎本部長に約束した二輪と合わせて7万台の目標も達成出来たのである。ただ7000台もジェットスキーが売れるとカワサキオートバイ販売会社と言う社名が合わなくなって『カワサキ・モータース・ジャパン』KMJという現在の社名に変更することにもなるのである。
★余談だが、今は二輪などの部品関係の インターナショナルトレーデイング・ムラシマ http://www.j-bike.com/murashima/ を経営し、NPO The Good Times の関東地区統括をやってくれている村島邦彦さんもジェットスキー関連でカワサキとのお付き合いは始まっており、89年5月にRPM の村島兄弟に初めてお会いしているのである。
90年には、ヤマハさんと共同で2月にPW安全協会設立総会を開催しているし、7月には川崎重工内にJS専門部門が出来て、鶴谷将俊くんが担当することになり、自ら JSBAの会長にも就任することになるのである。
91年には、鶴谷くんがJJSBA会長に就任したことに依り、カワサキが主導するJJSBAの運営方針への刷新を図り、KMJからも宇田川勇、永野、望月くんらがJJSBAに出向して、新しいJJSBAを創り上げたのである。その成果は11月にはサイパンで、大々的にJet Sky KAZE Water Forum をJet Sky ARK (Authorized Riliable shop of Kawasaki)たちと開催するまでになったのである。
84年に新しいジェットスキープロジェクトを立ち上げて以来、約6年で新事業は完全に軌道に乗ったと言ってもいいのである。
★1990年代は、カワサキの二輪もジェットスキーも絶頂期で、ジェットスキーはJJSBAのレースをそのベースとしての展開になるのだが、そのレース規模も年を追うごとに大きくなり、
●93年11月には 琵琶湖の近江舞子でJJSBA10周年記念のWorld Cup を大々的に開催。
●96年には 石川県羽咋市千里浜での10周年記念レースにはエントリー台数1000台を記録。
するなど世界最大のエントリー台数となるなど、ジェットスキー最盛期を迎えたのである。
二輪も、ジェットスキーも『遊び道具』なのだから、
私の国内担当時代は徹底的に遊んで、『遊んでいたら自然に売れる仕組み』で勝負したのだが、一般に真面目な人が多すぎて、遊んでいてもあれだけ売れるのなら『真面目に一生懸命売ったらもっと売れる』と錯覚して、真面目に販売をやり出したら、逆にマーケットは縮小して台数は減ってしまっているのである。
もう一度、
二輪業界は、本田宗一郎さん時代のサーキットやレースなどの『遊び心』を取り戻してほしいものである。
バイクも、ジェットスキーも、楽しい乗り物である。
若し、一生懸命やるのなら、それは販売ではなくて『安全運転活動』だと思っている。
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