★ 8月15日、終戦記念日である。
1945年8月15日、私は中学校1年生だった。
当時の朝鮮、京畿道京城府城東区新堂町桜ケ丘と言うところにいたのだが、8月15日は夏休みの最中で城東中学校のプールで泳いでいたのだが、正午に天皇陛下の玉音放送があって、炎天下の校庭で直立不動の姿勢で聞いたのを覚えている。
ネットの中で探していたら、こんな城東中学校の写真が出てきた。
ついでに当時の京城の写真を幾つか・・
こちらは京城駅である。 当時夏、冬の休みには明石に来ていたのだが、駅も汽車も朝鮮のほうが立派だなと子供心に思っていた。
学徒動員で出征する先輩をこの駅まで何回か送りに来た思い出もある。
昌慶園の桜は立派だった。 冬は大きな池がスケート場になったりした。
朝鮮神宮である。
何度か行ったことがあるが、立派な神宮であった。
今はどうなってしまったのだろう?
朝鮮神宮も日本になってから創られたものだろうし、昌慶園の桜も、元の宮廷にあとで桜が植えられたようである。
奨忠壇公園は、家から歩いていけるところにあって、冬は毎日と言っていいほどこの池でスケートをして遊んでいたので懐かしい想い出いっぱいである。
戦時中のソウル(京城)の生活は、食糧難も空襲もなく平和な普通の生活で、何の問題もなかった。
戦争は新聞やニュースで聞くだけで、特に戦時中という感じはしなかったのである。ただ、母方の伯父は南方で亡くなったし。明石も岡山も空襲で家は焼けたし、明石の空襲では叔父、叔母が亡くなったのである。
★ 小学校の6年間と中学の1年生までソウルにいたので、戦前のソウル(京城)についてはちゃんと覚えているし、海外でも一番行ってみたかったところなのだが、なかなかその機会がなかったのである。
ところが、1988年9月、ソウルオリンピックの開会式の日に、オリンピック会場のすぐ前のハンガン(漢江)で、ジェットスキーのデモンストレーションをやって欲しいとオリンピック委員会からの依頼があって、私はその団長として懐かしいソウル(京城)に行くことが出来たのである。
その時頂いた額である。
その時のスナップの1枚である。
オリンピックだから世界からトップレベルを集めようと、アメリカ、欧州、オーストラリア、日本のジェットスキーチャンピオンを集めたチームをつくっての参加となり、日本からも、JJSBAの苧野豊明会長など選手諸君も大勢参加したのである。
オリンピック競技場のすぐ前に、ハンガン(漢江)はある。子供の頃も何度か行ったことがある。かってはハンガンの南側は何もなかったのだが、今は立派なまちになっていてオリンピック競技場もそこに創られていた。
そのオリンピック村の施設に泊めて頂いて、オリンピックも観れたのだと思うが、真面目に練習ばかりしていて、私は競技場には行っていないのである。
開会式の当日も、午前中に無事演技は済ませたので、そのあとオリンピックも観れたのだと思うが、私は当時のJJSBAの苧野豊明会長と一緒に、ひょっとしたら戦前住んでいた家が残っているかもと、タクシーをチャーターして当時の城東区を探し回ったのである。
日本と同じようにソウルも新しい道がいっぱいできてなかなか難しかったのだが、まず『奨忠壇公園』に行きそれから家を探したのだがなかなか難しくて、通っていた『桜ケ丘小学校』を探し当て、そこから家を見つけることが出来たのである。
中学校はほんの数ヶ月だけだからもう一つ記憶にないのだが、小学校ははっきりと覚えていて、これは手前の建物のところは、かっては体育館だったのが新しくなっていたが、本校舎は昔の儘に残っていた。
小学校の裏門から、道を辿ってゆくと懐かしい家が残っていた。
何故か塀や門は新しく作られていたが、昔はもっと開放的はつくりだったのに、塀と門になってしまっている。
ただ、屋根は全く昔の儘の形状で、瓦のヨコの銅板もとゆもそのままで懐かしかった。
苧野豊明さんとのツーショットである。
苧野さんは、ずっと上司だったのだが、後半はいろんな形で援けて頂いて、国内にジェットスキーを導入する際にも、JJSBAの初代会長として、手伝って頂いたのである。
★どうも昨今は、韓国との関係がもう一つなのだが、私個人は韓国は私の故郷であることは間違いなく、もう少し『いい関係』にならないものかとずっと思っているのである。
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