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カワサキの二輪事業と私  そのー6   ハレーのダンピング訴訟と国内構造対策

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★ 昭和53年(1978)になって、アメリカ市場でハーレーが、日本各社に対して、ダンピング訴訟を起こしたのである。日本4社がアメリカ市場を席巻しハーレー社の経営危機が言われていた時代である。

アメリカ市場中心で事業展開をしてきたカワサキは、アメリカ市場を担当するKMCの経営状態が即日本の事業本部の経営に大きな影響を与えたそんな時代、それまで堅調に発展を続けたKMCだったが、Zの時代も終わってオイルショックなどの影響も受けその経営が揺らぎだしたのである。

それに追い打ちをかけたのが『ハ-レーのダンピング訴訟』でこれに対応できなければ、カワサキの二輪事業の存立が危ないような状況に追い込まれたのである。

この『ダンピング対策』を担当したのが田崎雅元さん(後川重社長)で、当時の発動機事業本部は昭和53年春以来、企画室を中心にその対策案をいろいろ検討し、当時の川崎重工本社の財務部門もいろいろ協力したのだが、なかなかその成案を見なかったのである。

当時私は既に企画室を離れ、開発途上国のCKD事業を担当していたので、この問題には直接関与をしていなかったのである。

 

『ダンピング』と言うのは、端的に云うと『安売り』だが、日本4メーカーが国内価格に比べて、アメリカ市場に『低価格』を設定することなど考えられないのだが、アメリカ独特のアメリカでの『流通経費率』以上は認めないという1点が、国内の多段階の流通経路による経費率の高さが『引っかかる要素』になってしまうのである。

特に当時のカワサキオートバイ販売は田中誠社長時代で苧野専務、加茂、清水屋常務など本社部門は川重の役員のような人たちで構成されていたし、川崎だけが他社3社に比べて1段階流通機構として多かったのである。

対策と言うのは、国内の流通経路対策だから、当時のカワサキオートバイ販売の構造対策なのだが、こんな大きな本社の人事対策も含めて、非常にややこしい対策が求められていたのは事実である。

本社財務や企画室のエリートたちが、いろいろ案を出すのだが、それがなかなか現状とマッチせずに半年が過ぎても成案を見るに至らず、9月になってしまったのである。

 

 

 

 これは、発動機事業本部から9月に常務会に上程した案に対して、当時の川重本社の児玉財務部長が自ら『見解』を書かれた『児玉メモ』である。 いま、こんな書類を持っているのは、多分間違いなく私だけである。殆どの方はその存在すらご存じないと思う。

この『児玉メモ』にも、発本が提出した『営研』と言う本田技研の技術研究所に対抗するような組織の問題が取り上げられていた。技術問題なら兎も角、日常問題が山積する販売会社には馴染まないのだが、そんな構造にでもしないと、経費率そのものが下がらないのだと思う。そのあたりの矛盾がどうもすっきりしないのである。

当時のカワ販は不良債権も現実に持っていて、それを営研などに持って行っても、解決などしないだろうと財務屋さんらしき指摘もあって、確かにその通りなのである。

そして、この問題がまたしても宙に浮いてしまった9月の後半、突然当時の発動機事業本部長の塚本碩春本部長に直接呼ばれて『カワ販問題』を担当するように指示されたのである。

 

★その問題対策に取り掛かるにあたって、一番最初に私がチェックしたのが、この『児玉メモ』なのである。

大企業の本社部門と言うのは、一種独特で、本社に上がってくるいろんな案件は形の上では社長や常務会、取締役会で承認されることになってはいるのだが、現実はここのスタッフたちが納得しなければ、いろんな案件は通ったりはしないのである。

そんなことなので、本社の頭脳のような『児玉部長』がどんなことを考えているのか?をまずチェックしたのである。

 

こんな対策案など仕組みの創造は私の専門分野で、すぐ具体的な大枠は私自身アタマに浮ぶのだが、その案が財務規約や法律との整合性などについては、そのあたりの知識に詳しい専門家の分野なのである。私はめっきりその辺が弱いのでいつも自分の弱い部分を補ってくれるメンバーと協働することにしているのである。

このメモは5ページに亘っているのだが、確かにご指摘の通りのこともあるのだが、『現実には合わない』おかしなところも散見されて、そのあたりを考えながらの『私案を』10月から私独特のスタッフ、前田祐作くんなど財務に強いメンバーを集めて、私が創る『仕組みの財務的な整合性』をチェックしながら、1ヶ月ほどで仕上げて、当時は単車から本社の財務本部長に戻られていた堀川運平さんに説明に上がったのである。

堀川さんは、私の説明をさらーっとお聞きになって『古谷くんが1ヶ月も掛かって考えたのなら、その案に乗りましょう』と言って頂いて、この新カワ販構造計画案は、12月の常務会に上程され、そのまま承認されるのである。

 

   

 

 この概略図が、12月の常務会に提出されて、承認されたのだが、この時のカワ販本社は10数名に縮小し、経費率が上がる部品部門は別会社にして、従来カワ販本社におられた社長以下専務、常務など川重の役員クラスの方をみんな除けてしまったドラスチックなものだったのである。

そして川重営業担当部門との一体運営にしておけば、実際は北日本から九州までの現場担当の方たちが日常の営業活動は大丈夫やれると思ったのである。

当時のカワサキオートバイ販売は100億円の売上、従業員は400名のそこそこのグループだったが累損は10億円もあって問題グループであったことは事実である。

その最終案にそった新カワ販の小さな本社の組織案を12月末に、高橋鐵郎さんが当時の財務担当の大西副社長のところに持っていったら、『これは実際には誰が旗を振るのか?』と聞かれて『古谷です』と答えられたら『それなら古谷くんを常務に・・』と大西さんが仰って、当時私は46歳の川重の未だ課長だったのだが、総勢400名のカワ販グループを常務と言う肩書で引っ張ることになるのである。

形の上では、社長は塚本事業本部長、副社長は単車事業部長の高橋鐵郎さんと、対外的には従来以上の人たちで世間対応をしたのだが、実務は当時課長の私が常務として、川重の営業部門在籍のまま兼務したのである。

  

 

★ 人間、半分は運かな と思っている。

特に成算ががあってこんな形にしたわけでもないのだが、昭和54年(1979)にはあの400FXが世に出たのである。

それまでにもW1 や、Z2などヒット商品も出たのだが、台数的には400㏄のFXとは売れる台数の桁が違ったのである。 放っておいてもどんどん売れて、バックオーダーも続き、バックオーダーが出ると、値引きは要らぬし、販促費も要らないのである。 

何もしなくても、車を特約店の店頭に届けさえすれば、右から左に売れたのである。そんな幸運も重なって、カワ販グループの累積損も、ほぼ2年で綺麗に消去されたのである。

 

この時期は、ホントに私が何をしたではなくて、ひとえに400FX サマ様 なのである。

二輪事業と言うか、量産事業は数が売れたら、その成果はめちゃめちゃ大きいのである。

仮に10万円の粗利のある商品は、100台で1000万円、1000台で1億円、1万台も売れたら10億円になるのだが、これが逆になると10万円の値引きなど当たり前なのである。

『頑張ろう』とすると、この罠にはまってしまうのである。

 二輪事業とは『いい仕組み』『いいネットワーク』を創って、頑張らずに遊んでいたら一番うまく行くのである。その仕組みの中の大きな要素が商品だから、商品開発が一つの『キー』であることは間違いないのだが、その商品を上手に使ってバックオーダーが切れないようにコントロールすることを、素人は忘れてしまうのである。

 

この時期2年間ほど、私は毎月課長の分際で、財務担当の大西副社長に国内グループの経営状況を直接報告することを義務付けられていたのだが、毎月経営状況は好転して、累損も消えてしまったのには大西さんもビックリされて『君は2年前に計画を出したときに、こうなることは解っていたのか?』などと仰るのだが、そんなことはこの時期は一切なくて、ひとえにFXのお蔭であったのである。

 

 

閑和休題

● この時期、私のような現役の若手が、カワ販グループと言う川崎重工業の関係子会社を担当することなど皆無で前例などないのである。川崎重工業の関係会社社長会と言うのがあって、年に数回、川崎重工業のトップメンバーとの会議とか懇親会があるのだが、大体関係会社の責任者は、川崎重工の元役員さんなどが務められていて、私のような現役はいないのである。

そんな会議に46歳の若さでただ一人出席し、60才以上の大先輩たちと一緒に会食などをしたりしたので、そんな経験は段々と『少々のことには動じない』厚かましさみたいなものも身に付いたのかも知れない。

この会議に出席していたら、ある時大西副社長が、『君はなぜ、ここにいるのか?』と不思議そうに仰るのだが、これは大西さんが私を『常務にしたこと』などすっかりお忘れで、その後は一課長からの月例報告として聞かれていたに違いないのである。カワ販の社長は塚本常務だから、塚本さんは川重の役員として出席されていたので、私が代わりに出席していたのである。

このほかにも、当時私は、かってのカワ販の社長以下重役さんたちは顧問のような形で、社内にはおられたので、毎日昼飯だけはご一緒していたのだが、これを見て当時の田崎雅元さんが、『古谷さんは、ようやるな。俺はそれは出来ないな』と感心してくれていたのである。

今現在は、ちょうどこの時期とちょうど逆で、83歳のおじんのくせして、20代、30代、40代の人たちともトモダチのようなお付き合いが出来ているのである。

 

 

会社の経営危機などいろいろあって、商品の販売好調程度で立ち直るのは、ある意味大したことはないのである。

ヒット商品や、経営努力ではどうしようもない段階になってしまったのが、例えば『シャープ』、 これくらいになるとどうしても『おカネの力』がなければ解決できないのである。

カワサキの二輪事業も、このあとすぐそれに近いレベルの危機に見舞われるのである。

 

 

● カワサキの二輪事業と私 ―その1  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

● カワサキの二輪事業と私 ―その2    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

● カワサキの二輪事業と私 -その3    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

● カワサキの二輪事業と私 -その4    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

● カワサキの二輪事業と私 -その5     http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4f03e9a2766e5131ec9c8c0143dacf66


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