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Channel: 雑感日記
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父の絵

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★なぜ突然父のことを・・・・

父は明治32年生まれであった。 母よりもちょうど10歳上だったから、もし生きていたら112歳になる。

52歳の時、亡くなったので、もう60年も前だったのである。 私が高校3年の1月のことで、いま思えば18歳の時であった。

 

いま時の親子と違ってと言うのか、私が変わっていたのか、

妹たちは父によく食事などに連れて行って貰ったなどと言うのだが、私は友達と遊ぶのが忙しくて、一緒に行った経験など殆どない。

そんなことで、私自身、父とそんなに沢山の会話を交わしたこともない。

ただ、何となく私は父が好きだった。

それは周囲の人たちが父のことをよく言ったからだと思う。周囲の人がアレだけよく言うのだから、いい人に違いないと信じていたのである。

 

★昨日、2番目の妹が、2年ほど前に亡くなった義弟の衣服がいっぱいあるので、貰ってくれと言うのである。

義弟の体型に合う人が少なくて、普通の人には合わない、端的に言うならそんなに肥えているいる人が、周りにいないのである。

そんなことで、神戸の北鈴蘭台までその衣服を貰いに行ったのである。

家はよく知っていたが、家の中に入ったのは初めてである。

そこに、父の生前書いた絵を見たのである。そんな絵があることも知らなかったし、戦後父の描いた絵を見たのは初めてである。

東京の親戚にあったものを貰ってきたのだという。

そんなことで、60年前に亡くなった父のことを突然思い出したし、子供のころはよく見ていた父の絵を見ることが出来て嬉しかったのである。

★戦前、子供の頃、ソウルにいた。

そのころ父は会社勤めなどはしていなくて、何するとなく絵など書いている悠々とした生活だった。

そんな絵を描いている父をヨコで見ていたものである。

戦後引き揚げてきてからはそんな生活はしていないので、この絵も戦前ソウルの家で描いたものを親戚に差し上げたものだと思う。

 

この二つの絵の構図は、橋本関雪の絵を模写したものであることは間違いない。

自分の写生した絵も描いてはいたが、絵の多くを家にあった関雪さんの絵を手本に写していたことも多かった。

『橋本海関に書を習い、橋本関雪に絵を習った』というのが父の自慢でもあった。明石藩の橋本海関さんは遠い親戚だという。

そんなことで父の号は『素雪』と称していた。

絵も書も、素人で玄人ではないのだが、結構熱心にはやっていた。

橋本海関さんはともかく、その息子の橋本関雪さんは、京都に有名な記念館もある著名な画家である

 

私の手元には、父のモノは一つもないので、絵があったことも大発見だったし、それが見ることが出来て本当に嬉しかったのである。

義弟の衣服も遠慮なくいっぱい貰ってきたし、

昨日はなかなかいい1日であった。

 

絵も書も、ブログで一般にお見せできるのも、時代である。

展覧会などにはよく出品していたので、このような形でお見せできるのも、

殆ど親孝行など出来なかった父への、せめてもの供養のような気持ちなのである。


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