★つい先日、『私の人生とレースの世界』 というこんなブログをアップした。
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/77f92da7e7c4af880bd49dd68fa0ad9b
特にFacebook では好評だったので、その当時のレースのこと、こんな記録で残っていたのでご紹介しておきたい。
2011年3月4日、平井稔男さんが主宰した『カワサキの想い出、そして未来』の時に纏めていたもので、外には発表するのは、これが初めてである。
自分のために纏めていたようなものだから、そんな目でお読み頂きたい。
そのスタート、公式にカワサキが発表したレースの最初の写真だと思う。
素人写真ではない。当時の広告代理店 大広が撮って広告宣伝にも使った写真なのである。
この時代の単車部門は機能としては企画も営業も品証も有していたが、人数はサービスも10人ほどの小規模部隊だったのだが、昭和39年に単車事業部として独立してからが本格的な動きになるのである。
当時の川崎航空機の本社から開発費として1億2000万円の広告宣伝費を3年間貰ったので、金は使いきれないほど潤沢だった。 ライダー契約金などもすべてこの中から支出していた。そんな関係でライダー契約は広告宣伝課、ライダーたちはみんな広告宣伝課の嘱託だったのである。
昭和40年までは直接は川合さんが担当、40年からは私が担当した。
当時のレース委員会は、今思えば錚々たるメンバーである。私がその事務局をやっていたが、後、川崎重工業の社長に田崎雅元さん、副社長に山田熙明、高橋鐵郎さんがなっている。
この年あたりから、ロードレースがスタートしている。 F21Mが出たのもこの年である。
事故や問題続きで大変な年だった。
この時期が私の第一期のレース担当の時代、カワサキが二輪の世界で一番になれたのは、『レースの優勝』だけだった、そんな時代である。