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片山義美、金谷秀夫&神戸木の実クラブ

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★ 昨日のブログへのアクセスが1000を超えた。

ずっと以前に書いた 「片山義美さんのこと」というブログへのアクセスなのである。http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/b422541ef9df7a79e963680c2ca65001

片山義美さんが亡くなったことは、山本隆君からの電話で知っていたのだが、あまり周囲の方にも知らせなかったようなので、静かにしていたのである。

 

片山義美さんはカワサキとは契約もなかったし、表では何の関係もなかったのだが、彼の主宰する神戸木の実クラブのメンバーたち山本隆、歳森康師、金谷秀夫との関係もあって、私は非常に親しくさせて頂いたし、義美さんのお母さんとも気が合っていろんな形でお付き合いがあったのである。

前述のブログは、ブログを書き始めた2006年にアップしているのだが、「片山義美さんの引退パーテー」に招待されて突然主賓の幕開けの挨拶をすることになって咄嗟に浮かんだ「仲間」という言葉について書いている。

 

私が、「想い出を共有する人たちを仲間という。」とはっきり認識し、外に対して発言したのは、片山義美君の引退パーテイの時だった。

ご存知の方も多いと思うが、日本を代表する世界に名を馳せた、二輪、四輪の名ライダーである。
スズキ、マツダの契約レーサーで、カワサキと直接の契約はなかったのだが、彼の主宰する神戸木の実クラブのメンバーであった山本,歳森、金谷,星野がカワサキの契約ライダーであったので、いろいろ接触はあった。
この引退パーテイで、予想もしなかった開幕の主賓の挨拶を、突然頼まれた。
断ったが、どうしてもと言われて、「スズキさん、マツダさんを差し置いて、ご挨拶をすることになったのは、多分、沢山の想い出を共有する仲間として、一言喋れということだと思う。」と前置きして、挨拶をした。

司会を務めていたのは、金谷だった。
事実、片山と金谷と私の間には、忘れることの出来ない、一つの共通の思い出があった。
その時はじめて、とっさに、この言葉が出てきたのである。

私流の「仲間」という解釈は、片山と金谷がくれた言葉だと思っている。

 

★そんな二人とも先に逝ってしまった。

金谷秀夫がカワサキに参加してまだその名前もよくは知られなかったころ、

片山義美に頼まれて,もし私が動かなかったなら、この世に「金谷秀夫」という名ライダーは間違いなく存在しなかったのである。

そんなこともあって、片山義美さんはカワサキには特別の支援もしてくれたのである。カワサキがGPレースの125ccマシンを開発中も、いろんな形で応援してくれたし、岐阜の飛行場で試乗してくれたりもしたのである。

 

片山義美さんとの想いでもいっぱいである。

 

 

 

  これはグリーンピア三木で行われた神戸木の実50周年記念パーティーでのカワサキとの契約のあったライダーたちとの記念撮影である。

 

  

 

 その時の山本隆くん。

 

こんな写真もある。

これは間違いなく、カワサキのファクトリーOB会で、レース仲間であった川重工業の元社長の田崎雅元、副社長の高橋鐵郎さん、カワサキレースチーム初代監督大槻幸雄さんなども顔を揃えているのだが、その中に片山義美さんがいるのである。

 

  

 

ホントにこの間のことだったのに、

岡部能夫も、金谷秀夫も、歳森康師も、金子豊も、そして御大の片山義美さんも逝ってしまった。

  

 

 

★ご縁があって、カワサキの創世期のレースチームに色濃く関係したのだが、その当時は片山義美さん以外は、この錚々たるメンバーたちも殆ど世にその名前など知られなかった時代なのである。

仲間たちは、その後みんな立派になって偉くなってはいるのだが、われわれ仲間の間では、その『当時の関係のままで今がある』のが自慢なのである。

 

 

 

片山さん、三木の出身で晩年三木で過ごされていた。

これはたまたま三木であった4輪のイベントで、三木の有名人稲田三郎さん大西ひできさんとのスリーショットで私がシャッタ―を切っている。

ひょっとしたら、これが片山義美さんとの最後だったかも知れない。

 

本当にご縁があって、親しかった片山義美さんのご冥福を心より願うものです。

 

 


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