★ 昨日、たまたまだが『ニトリ』と『川崎重工業』の記事が流れた。
『川崎重工、想定外の損失計上で快進撃にブレーキ…「負け犬」船舶事業を捨てるべき』
どちらも関心があったので、ちょっと長かったが読んでみた。
私は1990年代の最後の2年間を札幌で過ごした。単身赴任だったこともあって、札幌での生活のための家具もいろいろ揃えたのだが、その殆どを購入したのが『ニトリ』なのである。
そんなことで、我が家には『ニトリの家具』は結構今でもある。
1998年ごろは多分北海道だけで大きかったのは札幌の店ぐらいだったのではなかろうか?
『ニトリ』というネーミングが珍しかったし、綺麗な店舗だったので、ひいきにしていたのである。
それがいつの間にか多店舗政策で成長して、三木に店舗が出来たりしてびっくりしていたら、3年前にアメリカに行ったら、アメリカにも店舗が出来ていて驚いたのである。
スタートは、札幌市内の小さな家具店、というのは知っていたのだが、昨日の記事は、今後の経営をさらに発展させるために社長を譲ったという記事と、実母との確執というこちらはあまり芳しくないニュースだった。
『ニトリ』については、なぜこんなに急成長したのかと、私なりに調べてみたのだが、製造から販売まで、それも運送事業まで、一貫した仕組みを創っていて、なるほどと思っていたのに、昨日のニュースは、ちょっと頂けないなと思った。
『ニトリ』については、ただそれだけのことである。
★もう一つのニュースは、『川崎重工業』
現役時代40年間お世話になったし、一応は株も持っているし、何となく解るので、興味を持って読ませて頂いた。
川重における『船舶事業』 この扱いはなかなか難しいのだろう。
川重そのもののスタートが『造船』からで、そこから『鉄』や『航空機』や『車両』という事業に戦前分かれていったのだが、戦後は川崎製鉄が急成長して、昭和44年の3社合併の時にも、『川鉄』だけは別格で船と飛行機と車両の3社が統合して現在の『川崎重工業』が生まれたのである。
3社合併後も、全社の経営を引っ張ったのは『船舶』で、ある時期の10年間は、『船舶の利益』があったから新しい二輪やプラントの事業が継続可能だったのは事実である。
時代は変わるもので、いまはその『船舶』がお荷物だという。一時『船舶』は子会社化して、川重の外にいた時期もあったのだが、そうもならぬと本体に復帰をしたら重たくなっているのだろう。
★経営という観点だけで言うなら、ドライにやるほうがいいのだろうが、そうすると『ニトリ』のような内紛も起こる。
『川崎重工業』の場合も、ドライにやるなら『船舶も捨てる』べきなのかも知れない。一度は外に出したのに、もう一度戻そうという判断も、それはそれで当然あるのだと思うが、純経営的に云うならこの判断が間違いだったのかも知れない。
その後『川崎重工業』らしからぬ内紛のような形で、社長が飛んだのも『船舶』が関係していたし、若し戻っていなければ、このような話も起こらないのである。
『ムツカシイ話だな』とこの二つの話題を、昨日は眺めていた。