★ KAZEのジェットスキー機関誌がおくられてきた。
商品を見ても、記事を読んでも、やはり今昔の感がある。
確かに商品もよくなったのだろうし、いろんな面で進んでいるのだと思うが、
当初あった商品のスポーツ性だとか、
一般の人たちの遊び道具という感じは、少なくなってしまったなと思ったりする。
一言で言えば『スマートに、専門的になり過ぎたかな』と思うのである。
★『ジェットスキー』というネーミングは、Kawasakiの商品名である。
元々アメリカ人のアイデア商品で、商品化したのは、単車事業部ではなくて、当時の発動機事業部だった。
私の同期の藤川さんなども関係していたようだが、そんなに詳しくは知らない。
当時の発動機事業部がエンジンを提供して、アメリカのリンカーン工場で生産し、アメリカのKMCだけで販売をしていたのである。
当時の明石の単車事業部は一切関係はなかったのである。
そんなことだったから、
日本市場にジェットスキーが入ってきたのは、カワサキは直接関係なくて、西武自動車がアメリカから輸入し、それをぼつぼつと売っていた。
カワサキは孫会社で当時の苧野さんや永田秀さんら(故人になってしまわれたが)が西武自動車との関係で、販売を手伝ったりしていたのである。
これをカワサキの正規の事業にしようと言いだしたのは、当時単車の企画課長であった故武本一郎さんである。私が企画部長だったのでその経緯は、よく承知している。
正規の事業にしてと言っても、当時の単車事業部には一人もジェットスキーの解る人はおらず、勿論組織などもない。
若し、やるとすれば『言いだしべえ』の企画がやらねばやる人も居らないのである。
そんな時オ―ストラリアの社長からたまたま戻ってきたのが鶴谷将俊君で、彼にジェットスキーを担当してもらうことになったのである。
誰かジェットスキーに乗れるやつはいないのか?と探して見つかったのが発動機にいた福井昇君で、彼はたまたま藤川さんの下にいたので、彼を貰い受けて形を整えて、さらに販売面では国内の販売会社にいた藤田孝明くんらとの混成チームでスタ―トしたのである。
福井昇君のJSプラザ明石が実質的にJS専門店第1号なのである。彼は今でもNPOの理事さんで手伝ってくれている。
彼らは『やる気満々』だった。
こんなメンバーがいなかったら、この事業は日本で育たなかったと思う。
故苧野豊明、永田秀さん。そのほか宇田川勇、永野くん、今もNPOで手伝ってくれている渡部タッチャンなどなど、創成期のJSに関係してくれた方々に感謝である。
今、八尾カワサキをやってる加藤さんも幡豆のマリ―ナ担当などしてくれていた。
こんなことを書くと、私もやってたと手を挙げる若手もいっぱいおられるだろうし、
NPO The Good Times の関東総括のインターナショナルトレ―ディングムラシマの村島さんは元々JSからのお付き合いである。
全くの『新市場』を開拓しようという人たちは、みんなオモシロかったのである。
★全く何もない無地のところに絵を書き、販売網の構築など、
いままで西武のボート屋さんが片手間で売っていたものを、これはレースなどもある遊び道具だから、専門店でなければならない、
と神戸に1店の専門店らしきものを無理やり造ってスタートし、同時にJJSBAのレース組織をアメリカのIJSBAと結びつけ、専門販社も立ちあげて何とか形だけを整えたのである。
当時のバブル景気も後押しして、順調に生育して、日本にジェットスキーが定着し、ヤマハさんなども参入して、PWSA(パーソナルウオ―タ―クラフト)という新しい名称も生まれたのである。
そして、ソウルオリンピックの開会式にオリンピック委員会からの正式招待を受けて、
アメリカ、オ―ストラリア、ヨーロッパ、日本のトップライダーたちが参加して、ハンガンでデモンストレーションをやれたのが最高の想い出である。
お世話になったかっての上司故苧野豊明さん(JJSBA初代会長)や鶴谷将俊、藤田孝明、福井昇君など当時の日本のこの業界のトップメンバーが参加して、私はその団長を仰せつかったのである。ソウルは私の小学校時代育った土地なので特別の思いもあったソウルオリンピックであった。
年間300台ぐらいの販売だったものが、8000台も売れて『無茶苦茶儲かった』時代も懐かしいし、
当時の立ち乗りのジェットスキ―が懐かしい。
いまは坐り乗りの小型ボートのようなものになって、『コケル』ということがない商品が主流のようである。
立派なショ―が行われるようにもなり、
JJSBAのレースは、北海道から沖縄まで全国で開催されている。
機関誌を眺めていても、間違いなく高性能マシンになって、
装備品もレース専用になってしまった。
『楽しい一般の人たちの遊び道具』からはちょっと離れてしまったところにある。
★たまたま、この連休三木で『ストライダー』の大会があった。
これもアメリカからやってきた商品であり、スポーツである。
これは、子どもののろものだから、
ずっと『楽しく且つ遊び心のある』一般大衆のスポーツとして広がることだろう。
そうあって欲しいと思っている。
『三木をストライダーのメッカにしたい』
そんな想いでこの大会を主宰したのは未だ39歳の川田さんである。
応援をしてあげたいと思っている。
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