Quantcast
Channel: 雑感日記
Viewing all articles
Browse latest Browse all 5069

戦前の教育 雑感

$
0
0

★ ノーベル賞を受賞された 大村智さんに対する私の感想を、『人のために生きる』 というブログでアップし、http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/33bf3bfb801bb69cd79e964b95b36972

そのまま、Facebook に転記したら、長い文章にも拘わらず100人を超す方たちから『いいね』と共感して頂いた。

そのブログの最後の3行にこのように記した。

そんな時代に育ったからかも知れぬが、私自身も、どちらかというと『自分のために』ではなくて、『人のため』『仲間のために』と自然に生きてこれたような気がする。それを、意識して、頑張ってと言うことではなくて、自然にそのように生きれたのは『戦前の教育』の良さかなと思う。

 

『戦前の教育』がどんなものであったのか?

それはあまり明確にされてもいないのだが、何となく『戦前の教育』はダメだったような印象を持たれているように思えてならない。

私は終戦の年が中学1年生、いわゆる小学校(当時は国民学校)時代を戦争の時代で過ごしたのだが、当時の朝鮮京城にいたお蔭で、戦時中ではあったが、空襲もなく、食糧事情なども何の心配もなく、極々普通のいま現代とほぼ同じような平和な生活であったと思う。そのあたりは内地で育たれた方とはちょっと違っていたのかも知れない。

小学校での教育は、今と極端に異なるところがあるとすれば、

●『教育勅語』や『大詔の詔』を毎月8日に、運動場で直立不動の姿勢で聞くぐらいで、教室での学習は非常によかったし、クラスの程度も非常にレベルは高かったような気がする。

● 修身の授業も確か低学年の1,2年生のころはあったように思うが、いわゆる修身で学ぶような事柄は、学校だけでなく家庭でも社会でも、当然のことのように言われていたと思う。

● 軍国主義の国のために『命を』などと言う考え方や、大きくなれば『兵隊さんに』などと言う考え方は、別に学校で特別に教育があったようなことではなくて、社会全体がそんな感じだったように思う。

● 先生、警察官、兵隊さん、のような公共、国民のために働く人たちに対しては、尊敬の念をもって接することが普通で、私は今でも先生や、警察官は立派な人という考えが抜けきれない。

 

★小学校時代、子供のころに受けた教育は、その人の一生に大きな影響を与えるものだということは、今回の大村さんの一事を見ても、Facebook に寄せられたコメントなどを見ても、現代の世の中でも続いているのだと実感をした。

そういう意味で、『戦前の教育』もそんなにおかしなことではなかったのではないか と思っている。

教育の中身というよりも、今は教育は学校や塾で先生が行うものという風潮がありすぎて、家庭での子供の教育が蔑ろ(ナイガシロ)にされているのが、一番問題だと思う。

共働きが普通になって、子供たちを親が育てるのではなくて、『保育園や学校の先生』に押し付けてしまっている日本の風潮が問題だと私は思っている。

 

★娘の3人の孫たちは、アメリカで育ったが、小学校を出るまでは、子供の面倒は親がみるということはアメリカ社会ではMUSTなのである。小学校時代は道でも公園でも、親が同伴することが義務付けられている。

クルマ社会だから小学校へ通う子供の送迎は学校まで、低学年は教室まで親が送り届けなければならない。

『戦前の教育』というようなことではなくて、子供の教育、人はどのように育てるべきか?という観点から、今の日本の風潮を少しは見直したほうがいい。

端的に云わして頂ければ、少なくとも小学生の低学年までは、家で『ただいま』『お帰り』とお母さんが迎えてあげるのがいいと思う。アメリカのように学校まで迎えに行かねばならないことから言うと、大したことではないのである。

その一事だけで、世の中の子供の非行など半減すると思う。今は親が子供を育てるという意識を失ってしまっているのではなかろうか?

アメリカの娘の家族が、いまアメリカにいるのは、3人の子供たちを『日本に戻って教育を日本で受けさせるよりは、アメリカで育てたい』と思ったからだろうと思う。

『個人の能力を自由に育てる』そんなアメリカの環境のよさみたいなものは確かに感じるのだが、日本の『保育所』などのシステムは、利便性ということではなくて『子供を育てる』という視点で、どれくらい機能しているのであろうか?

 

 

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 5069

Trending Articles