★お盆である。
明石の長寿院に墓参りに行った。
久しぶりに、子供のころ覚えている旧い明石のまちを巡ってきた。
お盆だから、昔の人の昔話を綴っておこう。
行ったらすでに花があった。本家がお参りしたのだと思う。父母の墓にも花があった。
多分こうなるのでいつも花は少なめに買っていく。
それでも、私が持って行った花でいっぱいになってしまった。
本家の墓には、祖父母と伯父伯母の4人、そして新宅の父母、いまは長寿院には6人が眠っている。
阪神大震災までは、幾つあるのか解らぬほど先祖のお墓があった。松平家の剣道指南番であったという古谷萬平の墓もあったし、歌人で有名だったという名前は忘れてしまったが、女性の墓もあった。この歌人のことを大学生が調べていて電話を頂いたりしたが、何にも答えられなかった。
そんなお墓もみんな地震で倒れてしまって、お寺が一括で葬られたようである。
書家橋本海関さんのお墓もある。画家橋本関雪さんの父である。
父は書は海関に習い、絵は関雪に習ったというのが自慢だったとは何度か書いた。
そのお墓である。
祖父母一家である。
この写真のころは、伯父も父も早稲田の学生時代、祖父母と父の妹、叔母の5人家族である。
この写真の中の祖父だけは、知らない。叔母は空襲で亡くなり、伯父も父も50代で亡くなったが、祖母は102歳まで生きたので、子供たちがみんな先に逝ってしまったのである。口数も少なく、いつも確りしていた印象である。「おばあちゃん」に甘えたこともないし、甘やかされた経験もない。
明石市細工町20 今の魚の棚、この屋敷は私の小学校低学年までは知っているが、空襲で焼けてしまった。
川崎航空機の接待寮となった二松荘のあるじの方が、料亭をやりたくて交換を求められたことがあったらしいが、二松荘は庭が斜めになっていて子供に危ないからと断ったとかという話も聞いた。
同じころの写真なのだろうが、これは上ノ丸の別邸である。
私は、昭和8年3月2日、ここで生まれた。明石市上ノ丸町2丁目720番地。
ここも空襲で焼けてしまって、土地も分割されたので、今はこんな番地はない。本家が右の白い建物のあたりに住んでいる。
左側はすぐ明石公園ですぐ外堀、戦後は外堀を埋めて競輪場になり、いま図書館になっている。
明石公園の松は空襲でみんな焼けてしまったが昔は、明石公園は松が主流だったのである。
これは多分、昭和9年か10年、真ん中に抱かれているのは私である。
既に祖父は亡くなっていた。
一番右は母の兄、楠見幸信、勝子夫妻。
伯父は慶応野球部の宮武、山下など黄金時代のメンバーで、当時の日米野球の全日本メンバーでもある。そんなことから、戦後国鉄スワローズの初代総監督を務めたりした。 金田正一投手は私より1年上なのだが、彼が入団した時の総監督なのである。そんなことで、当時の金田ー根来のバッテリ―などは渋谷の伯父宅にしょっちゅう遊びに来てたらしい。
息子も、孫たちも、幾らかでも運動に優れているのは、近いところではこの伯父のDNAなのかも知れない。不動の1番バッターであったらしい。
一番左が父の兄古谷脩輔である。この写真の左右の伯父には私は本当にお世話になった。
多分、父と話した時間よりは、二人の伯父たちと話した時間のほうが長いだろう。父は家では無口でそんなに喋ったり、相手をしてはくれなかったが、私は父が好きだった。
お寺の帰り、明石のまち、特に戦前の明石の私が思い出せるところを歩いてきた。
ここは中崎海岸の裏手、戦前は中崎海岸は風光明媚な松林だったのである。ここはその面影が残っている。この先の右手に伯父が道楽でやってた錦江ホテルがあった。
計見の叔父が支配人で、実際の経営に当たっていたのだと思う。それが戦時中川崎航空機の軍人宿舎になったので、私の川崎との関係もあるのだが、川崎航空機があったので明石は空襲で焼け、叔父、叔母は亡くなってしまって、恩恵を受けたのは私だけというそんな結果になっている。
伯父の本職は当時の朝鮮の南鮮合同電力非常勤副社長だったので、明石にいたが年に数回、京城にきていた。父は京城にいたが務めはなかった。多分株の配当などで生活していたのだと思う。
このお稲荷さんは、私の小学生のころからある。
ここは計見夫妻宅(叔父、叔母宅)でその一隅にこのお稲荷さんはあった。お二人とも明石の空襲の犠牲で亡くなってしまったのである。
その屋敷も焼けてしまって、戦後宇治から明石に来られた辻勝一さん(後明石商工会議所会頭)と親交があった伯父がお世話をして、辻さんは今の関西建設を終戦の年昭和20年に、この地でバラックからスタートされたのである。私は戦後引き揚げてきて神戸一中に入学するまでの何ヶ月間、毎日のように伯父に連れられてここに来ていたのでよく知っている。
そんなこともあって辻さんにはいろいろお世話にもなった。冒頭の長寿院の檀家総代は伯父のあと辻さんが引き受けてくださったりしたのである。
これは今はちょっと有名になった明石の『魚ん棚』この車が止まっている道は昔はなくて、多分このあたりに細工町の屋敷はあった。
小学校時代の私の本籍、『明石市細工町20番地』である。
今はなくなってしまったが、朝日新聞の確か『黒石さん』というお店があった。
このあたり、私が小学校のころから、ずっといまでもあるのは『千春園』のお茶屋さん、
そして『分大』https://www.bundai.co.jp/ も、あったに違いない。ちなみに、『分大』の娘さんは、私と明石高校の同級生なのである。 娘さんと言っても当然、いまは『おばあちゃん』であることは確かだが・・・そのほか同級生にはいろんなお店をやられて方がおられたのだが・・・・・
明石もそういう意味では、『変わってしまった』のである。
今回、明石に行って一番びっくりしたのは、山陽電車の日新町あたりが高架になって、かっては国道が山陽電車を跨いでいたのだが、今は逆になってしまった。
ちなみに、私が大学時代明石球場でよく練習していて部員が明石に来た時びっくりするのは、国鉄明石駅を降りたらすぐ前に山陽電車の踏切があったのある。確かに駅の前が踏切という町は珍しいのかなと思ったものである。
当時はまだ国鉄も高架になっていなかった。明石のまちから上ノ丸に帰るのに、よく駅の中をお願いしたら『タダで』通して頂けた、そんないい時代であった。
私の生まれ故郷、ふるさと明石の戦前戦後のお話である。