★ 世の中には『おまつり』と銘打った 『イベント』も確かに多い。
『イベント』はその大小を問わず、『何のためにそのイベントを実施するのか?』 本来の目的、基本的なコンセプトが間違いなく存在するはずなのだが、『イベント』を重ねているうちに、本来の目的は忘れ去られて、『イベントを開催すること』自体がその目的になってしまっている場合も多いのである。
イベントを『祭り』とネーミングすることも多いのだが、
「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。しかし宗教への関心の薄れなどから、祭祀に伴う賑やかな行事の方のみについて「祭」と認識される場合もあり、元から祭祀と関係なく行われる賑やかな催事、イベントについて「祭」と称されることもある。
本来『イベント』と『おまつり』は本質的に異なったものだと思っている。
★私自身は、何故か若いころから『イベント』にはご縁があって、いろんな催しごとを主催、主宰する立場を数多く経験してきた。
現役時代には、年中『イベントが開催される』二輪業界に籍を置いたこともあって、『レース』『展示会』『ユーザー対象イベント』などなど、直接手掛けてきた。
その最後の時代、1990年代には、『遊び半分ではいい遊びはできない』と『遊びのソフト会社』株ケイ・スポーツ・システムを立ち上げて、『遊び』や『イベント』に本格的に取り組んだりしたのである。
そういう意味では、『遊び』や『イベント』は、『プロの領域』とも云えるし、そのソフト・ノウハウも、いろいろと身に付けていると自負している。
元来『イベント』と『おまつり』は全く違うものなのに、現在の『イベント』はますます お祭り化してしまって、『本来の目的』が忘れ去られてしまっているように思うのである。
『お祭り』とは、宗教行事の伝統を受け継いでいくものだから、古来からやられている通りにその伝統を守って、同じことを繰り返す『進歩してはイケない』モノなのだろう。 昔のやり方を受け継ぐことに『お祭り』の存在意義がある。
然し、『イベント』には本来の目標、基本コンセプトがあったはずであり、『その実現』のためにどんどん進化させていくべきが本来の姿なのだろう。 その実施方法なども年々効率化されて、予算など縮小されるほうがいいのだが、実質はその逆の場合が殆どなのである。段々と『お祭り化』して本来の目標とは関係ないところで毎年実施されている。
皮肉っぽく言えば、『・・・まつり』と称するイベントが多いのは、自らが進歩を否定しているのではないかと思うし、思考の中にそんな発想は存在しないのである。
★『イベント』などは、本来そんなに大したものではないのである。
そのベースになっている基本コンセプトを実現するための単なる『ロケハン』の一つなのに、世の中は完成した映画やストーリーのことを忘れてしまって、その一場面だけを追っかけているのである。
特に、雨が降ると全く価値が半減する屋外のイベントに、一生懸命そればっかりを追っかけるのは、リスクが大きすぎる。もし仮に当日雨が降っても、その価値が半減しないような、そのイベントの前後対策のほうが肝心なのである。
★私が住んでいる町、三木にも、『三木金物祭り』と『三木さんさんまつり』という大きなイベントがあるのだが、そのどちらも毎年盛大に行われるのだが、果たして当初の目標は達成されているのだろうか?そのどちらにも、多くの市民の税金は使われているのである。
同時に、三木は本来の伝統の『お祭り』も盛んである。私はそんなに実情に詳しくはないのだが、こちらは地域住民参加型であることは間違いないし、昔からの伝統が守られていると思っている。
そんな状況の中で、今年から『地域活性化』を目標にした 燦々SunSun というプロジェクトを立ち上げて、つい2か月ほど前から、有志の仲間が SunSun 水曜マルシェ なる小さなイベントを立ち上げている。
https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=SunSun+%E6%B0%B4%E6%9B%9C%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A7
これは既に 8回毎週続けて実施されて、なかなか『いい方向』なのである。別に1円の予算もないし、補助金などはアテにしていない。
この年末に、三木市も肩入れするこの地域の『三木マルシェ』があるのだが、仮にその日が雨になって中止になったとしても、その目的は幾らかでも達成できてる、そんな発想からである。
★一度、そんな目で、世の中のイベントなるものを見直す必要があると思っている。
オリンピック競技場の問題なども。今年100年目を迎える夏の甲子園の高校野球大会も。
高校野球は、なぜ、各県からの出場になっているのか?
県の代表とはいいながら、現状は、特に地方は、野球学校が主力の大会になってしまった感がある。昭和25年(1950年)明石高校で私たちが出場した時は、出場選手14名全員が明石市民だったのだが・・・
私の率直な『イベント雑感』である。