★ このブログを書いたとき、2012年11月、http://rfuruya2.exblog.jp/18731930
東京でこんなメンバーで会ったのが、金子豊君とも岡部能夫君とも最後になってしまった。
昨日、金子豊の訃報を、このブログへの異常なアクセスで知ったのである。
何かあった? と調べたら金子豊が亡くなったというニュースに辿り着いた。
もうずっとずっと旧い40年以上も前、私がカワサキの創世記のレースマネージメントをしていた頃のことである。
星野一義にも、金子豊にもその頃出会って、それ以来いろいろあったのである。
金子豊は当時カワサキコンバットに所属はしていたが、カワサキとの直接の契約などはなかった。
よく知ってはいたが、彼との直接のお付き合いは、私もレースから離れ、東北6県の営業担当になったころ、金子もレースを離れて秋田の故郷に戻っていて、私が仙台に来たと知って、パブリカスポーツに乗ってよく仙台まで遊びに来ていたのである。彼の運転する車で秋田まで一緒に出掛けたこともある。
その後、彼は確か関東のホンダの工場に勤め、そのあとご縁があって星野の妹を貰って、二人で「ホシノインパル」を経営することになるのである。
その後も、カワサキがX-11というレース専用のマシンを開発していた時は、そんな関係でわざわざ明石まで来てくれたりした。
NPO The Good Times を立ち上げて、その団体会員に真っ先に頼んだのは、金子豊の「ホシノインパル」だったのである。この話は、続きがあって、NPO The Good Times に団体会員で参加したら、あの「ホシノインパル」と同じ列にバナーを貼って貰えるのですか?とそんなことで団体会員になられたとこもあったりした。
金子には「騙されたと思って入れ」と頼んだら、すぐ参加してくれたのである。
カワサキコンバットの3人、岡部能夫、金子豊、星野一義、神戸木の実の山本隆である。
これに金谷秀夫がいたら、数多いライダーたちの中でも、私が一番印象に、思い出に残っているライダーたちなのである。
岡部、彼が怪我をしなかったら、星野のデビューは未だ未だ先だったかも知れない。
17歳の星野一義が、最初にレース場を走ったのは、『岡部能夫」の名前だったのである。
なぜか若いころから可愛げがあったし、豪快で早かった。
今回も、いろいろと気を遣ってくれた星野の兄貴分である。
金子豊、コンバット時代はそんなに名前も出なかった。
その後私の仙台時代、秋田にいた金子とパブリカスポーツで一緒に走りまわった。未だ無名のころである。
星野インパルがここまでになったのは、金子豊の力であることは間違いない。
NPO The Good Times がスタートして未だ右も左も解らない頃、『騙された』と思って入れと参加して貰った。
星野インパルと並んでバナーが貼れると、そんな理由でNPO に参加してくれた人もいる。
金子とはそんな仲である。
星野の妹を貰ってるので、星野の義弟ということになっているが、歳は星野よりは上である。
星野と山本、二人は説明の要もない有名人である。
二人とも歳を重ねて、いい顔になった。
これは、2010年1月、カワサキファクトリーOB会の翌日のゴルフコンペ、金子と金谷と一緒にラウンドした時の金子豊である。
私がカワサキのレースを担当した当時の選手たちのうち、
梅津次郎、岡部能夫、金谷秀夫が先に逝ってしまったし、今年になって歳森康師がなくなったと思ったら金子豊である。
みんないい奴だったのに・・・・思い出だけが残っている。
こんな中で、金子豊君だけが、レースで走っている姿だけは全く脳裏にないのだが、彼とは非常に密接な繋がりがあったように感じている。東北人独特の人の好さが身についていたように思う。
星野を支えて、星野インパルをここまでにしたのは、金子の力なのだろう。
私は、ネットで彼の死を知ったのだが、山本隆君からすぐ電話があった。
彼はFacebookに、金子のことこんな風に書いている。
https://www.facebook.com/takashi.yamamoto.31392?fref=ts
金子豊くん 安らかにお眠りください。
心からご冥福を祈るばかりです。