★明石で生まれ本籍も明石である。
戦前は朝鮮、今のソウルにもいたし、仙台にも札幌にも住んだこともある。
今、住んでいるまち三木がもう40年近くにもなるので、一番長く住んだまちになるのだが、
明石は中学、高校、大学時代を過ごしたし、勤めもカワサキの明石工場であったこともあって、
人生で一番馴染みのある町は明石ということになるのかも知れない。
退職して年金生活になった今も、明石の人丸町という旧いまちにお墓があるので、毎年正月とお盆、春秋のお彼岸には墓参りに行くので、最近の明石も何となく解ってはいる。
★昨日は、春のお彼岸で墓参りに行ってきた。
いつも三木から真っすぐ行って、真っすぐ戻ってくるのだが、何となく明石の繁華街の方を回って戻ってきた。
車の中で、思っていたこと、
● 町というのは、変わらぬところと、全く変わってしまうところがあるものだ。
● 明石の表通りは、そういう意味では全く変わってしまった。人丸町や生まれた上の丸辺りの道は、武家屋敷があったそのままで子どもの時と同じように狭く、曲がっている。
● 川崎重工の明石工場に行く道もどんどん広くなり、昔どうだったのかよく解らないような変わりぶりである。
● 未だ小学生のころは、細工町、今で言う有名になった『魚の棚(うおんたな)』に本家があって、そこが本籍だったのだが、これは戦後既に全く様相を一変したのである。
● 明石から三木までの道は、18キロほどだが、40年前三木に移り住んだころは、全て2車線の175号線だったのだが、今はその8割ほどが4車線になっている。
● 神出から廣野ゴルフ場までの道は、全く40年前と同じ風景で、雄岡山、雌岡山の間を抜ける自然豊かな道である。
とこんなことを思いながら、車のハンドルを握っていた。
町が変貌するときに、昔の面影を残しながら変わっていくのがいいなと思うのだが、なかなかそうもいかないのである。
明石海峡には、橋が掛って景観も周囲の環境も一変なのである。
そういう意味では、今住んでいる三木あたりが、住むには一番いいのかなと思ったりもする。
★私自身、もう80歳に近くて、その殆どの年月を、『明石』と関係を持ちながら生きてきた。
お墓が明石にある限り、私自身は明石と関係を持ちながら、生き続けるのだろうが、
息子の代になると一体どうなってしまうのだろう?
息子にとってみれば、『明石』など殆んど関係ないだろうし、
明石に墓があることなど、困ってしまうのではなかろうか?
そういう意味では、日本のお墓や、お寺との関係も、町が変わってしまうように一変してしまうのかも知れない。
★もう一つの、『三木のまち』
この5、6年、三木を意識して生きるようになった。
それまでの三木は、
● 確かに40年住んではいるのだが、文字通り私にとっては『ベッドタウン』 寝るために戻ってくる町でしかなかった。
● 子どもたちにとっては、高校まで、過ごした故郷である。
● 家内にとっては、生活の場ではあったが、特に三木に愛着など持ってはいないだろう。
でも今更、何処かに移ったりは、間違いなくしないのではなかろうか。
今から、一生過ごす場所になるであろうことは間違いない。
その三木のまち、最近は結構気に入っている。
自然環境がいいし、空気も水もいい。
どこに行っても『広々としている』のが一番気に入っている。
都会のような賑やかさは」ないのだが、雑然としたところがナイ。
老後を過ごすには最高のまちである。
適当な8万人という人口だから、この5,6年で結構町の有名人とは、老若問わずトモダチになれたりする。
これが、一番いいのかも知れない。
今、NPO The Good Times のメンバーになって頂いている人たちは、何となく三木のユニークな有名人が多い。
『未来にはばたくみっきぃタウン』というFacebookグループには、
既に100人近くの人たちが参加しているが、これはどんどん増えるだろう。
今、時代の先端を走っているFacebookをやっている『先進的な人たち』と言っていいだろう。
『三木』という町を核に、ネットの世界でも、現実にも繋がって、毎日お会いすることが出来るのである。
日本に、なかなか、こんなまちはナイと自信を持って言い切れるようになってきた。
『三木 おもろいわ』 なのである。
★NPO The Good Times のホ―ムページです。
★『異種、異質、異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』というFacebookページです。
★毎日発行される NPO The Good Times 新聞です。