★このブログに『カワサキ単車の昔話』というカテゴリーがある。
このブログを始めたころ、このカテゴリーを中心に発信していた。久しぶりの発信だが99話目になる。
『単車』という言葉自体が懐かしい響きがあるし、かっては『単車事業部』という時代が長かった。
そして、カワサキの創成期の想い出の中に、モトクロスレース、それも『赤タンク時代』のカワサキのモトクロスチームの想い出が懐かしい。
★そんな昔の想い出の中でも、この写真はいちばん欲しかった写真なのだが、なぜか私の手元には残っていないのである。
昭和40年ごろ、単車事業がスタートしたばかりだったのだが、川崎航空機の本社開発費で1億2000万円の広告宣伝費を3年間予算計上してくれた時期があった。
その広告宣伝課を担当していて、私の年収が40万円の時代だから大変な額だったのである。
なかなか使いきれなくて、レースも含めて、何事にも豪勢に使っていたウソのような時代であった。
その当時の総合カタログのまさに立派なものを造ったのだが、そのトップページを飾っていた写真なのである。
富士の裾野の朝霧高原であったMCFAJの全日本大会の時の写真である。
左から
安良岡健、三橋実、歳森康師、山本隆、岡部能夫、梅津次郎 カワサキのファクトリーの契約選手たちである。
三橋実が率いる関東のカワサキコンバットから安良岡、岡部、梅津、 ?の字のコンバットのマークが当時はカッコよかったのである。
関西の名門神戸木の実クラブから、山本と歳森はまだヘルメットに神戸木の実のマークも入っていない新人時代である。
未だコンバットの星野一義も、木の実の金谷秀夫も契約はしていない、創成期のカワサキのライダーたちなのである。
この年の朝霧高原での全日本MXが私が初めてみたモトクロスでもあったが、当時はまだ広宣課の管轄ではあったが川合寿一さんが直接の担当だった。
★この写真がひょんなことで見つかった。
ずっとあとの時代、
カワサキのレースに深く関わった大津信君が、昨年から『野々池周辺散策』という綺麗なブログを発信している。
そのブログの中に見つけたのだが、
更にその先は、アメリカのこんなKawasakiのモトクロスの歴史を編集したサイトの中に記載されていたのである。
Kawasaki's original factory motocross team lined up for a race in Japan, sometime in the 1960s.
This is a 1966 Kawasaki B8M that must sound amazing when it's fired up. Known as the “red-tank Kawasaki,” this bike was first put into development in 1962. It was based on a 125cc street bike.
★ 英文でこんな説明文が付されている。
some time inthe 1960s と書かれているが、MCFAJの朝霧高原での全日本、昭和39年春(1964)のはずである。
125ccB8は、昭和37年(1962)からの発売で、私はその前のB7時代から単車営業にいたので、このあたりの経緯はよく承知している。
★もう少し、当時のレースの昔話をすると、
当時はMFJよりはMCFAJの方が主流で、全国に幾つものクラブがあった。
その頂点を極めていたのが、
久保和夫などのいた東京の城北ライダース(スズキ)、
神奈川の野口種晴さん率いるスポーツライダース(ヤマハ)
京都の小島松久のマウンテインライダース(スズキ)
片山義美の神戸木の実クラブなどであった。 片山義美はスズキとマツダの契約で所属選手は、カワサキとの契約選手が多かったクラブだった。
★当時のカワサキでレースに熱心だったのが、技術部長の山田さん(のち川重副社長)で、もっと熱心だったのは兵庫メグロの西海社長だった。プロのオートレ―スの選手だった西海さんはカワサキがレースを出来るように、兵庫メグロにいた松尾勇さんを川崎に送り込み、事実カワサキの初期のレースマシンは、殆ど全て松尾さんの手で造り上げられたのである。
社内にレース経験者など皆無だったし、レース運営に関しても西海さんの意見や、片山義美さんの意見は参考になった。現場監督は初めはカワサキコンバットの三橋実が指揮を取っていたのである。
そして、1億2000万円もある広告宣伝費があったので、そこからレース費用は賄っていて、ライダー契約金も派手に出していたし、やりたいことは殆ど何でも出来たのである。
レース運営委員会の長を山田さんがやられていて、中学の先輩でもあったので、非常に面倒を見て頂いたのである。
レースも後発メーカーだったが、選手の養成には非常に力を入れていた。
新人選手の養成は、カワサキコンバットの三橋実に一任して、カワサキコンバットの運営費に月20万円を渡していたのである。これは当時では結構多い金額だったはずである。
厚木の三橋の元には全国の若い有望ライダーが多数集まったのである。どんな運営になっていたかはすべて三橋に任していた。厚木の借上げアパートには沢山の若手ライダーがいた。その中の一人が星野一義であり、いま星野インパルの経営をやっている金子豊なども秋田からやって来ていたのである。
各地に造った赤タンク会からも大阪の木村夏也などが現れたりした。
カワサキコンバット中心に動いていた時代で、神戸木の実からは山本、歳森の2名だけだったのである。
★当時のカワサキのファクトリーチームは、技術、生産、営業の混成チームで、エンジン開発は技術部、車体は松尾勇さんがチーフのモトクロス職場でマシンに造り上げ、その管轄は製造部、ライダー契約レース運営は私、広告宣伝費でラ―ダ―たちは全員広告宣伝課所属だったのである。
契約金は結構派手に弾んだので、シルビヤ(三橋)、スカイラインGTB(安良岡、岡部)、ホンダS500(山本、歳森)など当時の最先端のスポーツ車を買ったりしていた。
レーシングチームというか広告宣伝課は中古のヘリも持っていて、ヘリ帯同でレース場に行ったりしていたのである。他メーカーのライダーたちからもヘリに乗せろとせがまれたりして、いろんな人と仲良くなったし、いろんなライダーたちとの接触も事実多かったのである。
どう考えてもいい時代で、私自身も30歳前後だったのだが、一番自由に金を使えた時代だったのである。
★そんな時代のマシンがB8からスタートしているのだが、その後B1125ccになり更に150ccから、更に大きく238ccのF21Mまで、その時代のマシン開発は技術部ではなくて、松尾勇さんだったような気がする。
最初に山本隆が鈴鹿を走ったロードマシンも松尾さんの作である。
レース運営委員会なる、技術、生産、営業の委員会がレース方針を定めてはいたのだが、その事務局は私だったし、モトクロス職場は当時製造部にいた田崎雅元さんの管轄だったから、その辺の若手で大体仕切れた、これもまたいい時代だったのである。
カワサキのレースは、青野ケ原のモトクロスも、
鈴鹿のジュニアローレースも、
会社の正式な指示で出場などしたのではなくて、いずれも現場の想いで、勝手に出場したのだが、
どちらも雨が幸いして、青野が原は1位から6位独占、
鈴鹿は、ホンダ神谷忠、ホンダ、3位にカワサキ山本隆が入賞して、ロードの世界に入っていくのである。
金谷秀夫がカワサキに初めて乗ったのは、山本が鈴鹿を走ったちょうど1ヶ月後、そんなことで山本は『ロードの先駆者』と今でも威張っているのである。
上の写真は、未だロードなど考えられないカワサキがレ―ス参入2年目の写真なのである。
私が直接レースを担当することになったのは、山本、歳森がBSと仮契約をしたという事件が起きた、ちょうど1年後からのことである。
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