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カワサキ単車物語50年 その22 F21Mデビューの年のこと

★Facebook で山本隆くんが

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こんな懐かしい

 

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青森県岩木山スキー場でのMCFAJ 全日本の写真をアップしたので、

FBでシェアしたら、それをまた、『二輪文化を伝える会』の松島裕さんが、

 

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『二輪文化を伝える会のFBページ』に取り上げられたので、もう少し日時などちゃんと調べてあげようと当時の日記帳を開いてみた。

 

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★昭和41年(1966)、私の広告宣伝課長最後の年である。  

日記からちょっと拾ってみると

1月5日  初出の日、藤井敏雄が契約のことで明石にやってきた。 この時点では本人の希望で、ライダー契約ではなくマシン貸与契約とした。

1月17日 FISCOを4輪車で試走、前年からMFJ 運営委員会ではFISCO での日本GP開催にホンダが第1カーブが危険と反対。この日運営委員がコースを4輪で試走した。『聞きしに勝る迫力』とその感想を書いている。

2月12日 鈴鹿でGP 125のテスト、ライダ―は藤井、三橋、金谷、ベストタイムは2分48秒。

2月27日 山本隆くん結婚式。仲人を頼まれていた。頼む方も頼む方だが、それを引きうけるのもどうかと思う。山本22歳、私32歳だった。

3月13日 FISCOで、MCFAJの全日本クラブマンレース、W650に金谷が乗る。350cc以上のクラスで2位。

5月22日 富士でのMCFAJ全日本モトクロス完敗。 スズキがRHニューマシンを久保、小嶋に。モトクロス界注目。

6月23日 MFJ 運営委員会、ホンダFISCOでのGP不参加を表明する。

 

 

★全日本での惨敗を受けて、モトクロス250ccのニューマシンを造ることに決定。

7月7日  青森のMCFAJの全日本モトクロスのために。エンジンは技術部、あとのマシン製作はモトクロス職場の松尾勇さんがべニア板に釘を打って、ヘリのクロモリのパイプを使って製作。 スズキは2台だが、契約ライダ―全員に7台を造ることにした。

7月11日 モトクロスニューマシン1号機完成。ライダーが社内で一人一人試走、評価最高。

 

7月19日 トラック5台編成で、青森嶽温泉に向かって朝出発、安藤監督以下メカニックたち、私もその一人として出発、御殿場須走旅館で一泊。

7月22日 3時から練習。ニューマシンは他社から注目の的。スズキRHは小嶋松久1台だけ、7台を揃えたのは圧巻であった。

7月23日 3時から公開練習。ニューマシンは断然早い。

7月24日 大会当日は土砂降りの雨、最悪のコンディション。250ccクラスはトップを走ってた岡部転倒で、小嶋が優勝。2,3,4ぃはカワサキ。オープンは山本優勝、歳森、北山(S) 、星野、岡部と5位までに4人が占めるデビューであった。当日浅虫温泉まで移動、そこで宿泊。

7月27日 名神に乗ってホッとする。6時半明石に到着。全行程3100キロ。

 

 

★この年は、レースではいろいろとあった。

モトクロスのF21M を除いては、私は大変な年だったのである。

 

8月27日〜  1000キロ耐久レースのためにFISCO いたら、明石から電話、『マン島のプラクティス中に藤井敏雄が転倒死亡』のニュース。

帰明後 葬儀など検討も、契約がマシンの貸与契約だけなので、レースなど関係ない管理部門の人の中には『会社は関係ない』などと言う人もいて纏めるのは大変だった。

9月1日〜 藤井の遺体が羽田に到着、現地で送りだしてくれたのは、ドイツに留学中で、前レース監督の大槻幸雄さん。 通夜、葬儀、カワサキがお手伝いが出来たことで本当にホッとした。

 

9月5日 レース運営委員会で、初出場のGPなどのレース方針が決まる。

ライダーは安良岡、シモンズ、あとデグナ―、谷口尚己などとの契約候補が決まる。

カワサキ陣営は山田熙明さんが総責任者、監督中村課長、助監督渡辺課長、GP監督はドイツから帰国する大槻さん、ジュニアロードレースは安藤さんが監督、マネージャーは古谷と決まった。

9月10日 デグナ―と契約するのに、外人ライダーとの契約など誰も解るものがいない。ホンダの前川さんに電話して教えて欲しいと言ったら、『鈴鹿まで来て頂けたら』と仰って頂いて、鈴鹿まで出かける。

9月18日 ロードレースで初めての優勝、東日本ロード選手権。90ccは村上、歳森、金谷、三橋と4今で独占、250ccは金谷、三橋と1,2位を占めた。

9月26日 デグナ―来日、神戸まで迎えに行く。Good Morningと一言言っただけで、明石まで車で戻ってきた。当時は英語など通訳をつけて話すものだと思っていた。

9月29日 FISCOで練習中デグナ―転倒、御殿場の中央病院で診察、大丈夫ということで、明石に連れて帰ることにする。

10月1、3日  明石病院にデグナ―入院させる。アタマではなく肩の治療のため。3日になってデグナ―の容態急変、脳に出血。

10月4日  明石病院は脳外科がないので、急遽神戸医大に移して光野教授の診察を受ける。大丈夫との診断安心する。

10月16日 FISCOでの日本GP、90ccは三橋が3位、250ccは金谷がガリーニクソンと大接戦の結果2位、日本GP 125ccは安良岡が7位。

 

 

★この年が、レースも最後の年であったが、

藤井敏雄のマン島の事故死、続いてデグナ―の転倒入院などがあって、ライダー契約などの担当として、本当に大変な年だったのである。

そんな中で、何となくよかったのが、モトクロスのニューマシンF21M が世に出て、カワサキのモトクロスの地位を不動のものにしたことだろう。

 

この年、レースでいろいろと関係のあったお二人、それは大槻幸雄さんと安藤佶朗さんである。

 

大槻幸雄さん。

あのZ1の開発責任者の大槻さんなのだが、この時点では市販車には、殆ど関係しておられない。もっぱらレース担当だったのである。

この年の前半までは、ドイツへ留学中で、マン島もそのGP125ccのマシンの開発には、関わっておられたので、個人的に観に行っておられたのである。藤井敏雄君マシンの貸与契約だったから、ほんの数人のメカニックが付いていただけなのである。

あの事故があって、もし大槻さんが現地にいなかったら、どうなっていたのかも解らない。藤井君が元スズキだったのでスズキの方にはいろいろお世話になったようである。

直ぐ、そのあと帰国されて大槻さんは、GP の監督に復帰されたが、デグナ―の入院で、おかしくなった時は、デグナ―はドイツ語しか喋らなくて、お医者さんとの通訳をされたのが大槻さんなのである。

私は、そんなご縁で今でも繋がっていて、KAWASAKI Z1 FAN CLUB などではお世話になっているのである。

 

安藤佶朗さんは、既にお亡くなりになってしまった。

国内レースの監督を大槻さんのドイツ留学の後、引き継いで頂いたのが安藤さんである。F21M のエンジン開発は、安藤さんが238ccにボアアップして創られたモノなのである。

この年のF21Mは、連戦連勝で、私は広告宣伝も担当していたので、モ―タショーに展示すると言ったら、『そんな恰好悪いこと止めろ』と安藤さんは仰るのである。

『何が恰好悪いのか?』とお聞きしたら、

『市販車の125ccのエンジンを、150ccまでボアアップして、さらにレーサーにして238ccにしても持ってると言うことは如何に過剰品質か』と言うことで、

それが『カッコ悪い』と仰るのである。

『そんなこと大丈夫ですよ』とモ―タショーには展示したのだが、

先日森脇さんから、Z1について、コストを考えない過剰品質のところがいいと褒めて頂いたのだが、

大槻さんも、安藤さんも、当時のレース監督の技術屋さんには、あまり『コスト意識』など無かったのかも知れない。

 

 

 ★★English Version です。

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