★8月15日、終戦記念日である。
68年前の8月15日、私は13才、中学1年生であった。
朝鮮京城、今のソウル、城東中学校の校庭で、直立不動で天皇陛下の玉音放送を聞いた。
よく聞こえなかったが、戦争に負けた。
戦争は終わったんだなと思った。
京城城東中学校で、画像検索したらこんな写真が出てきた。
この日は夏休みで、中学校のプールに泳ぎに行っていたのである。
中学校には入学はしたが殆ど学校には行かずに山で松根油を作るために松の根を掘る学徒動員が殆どだったので、学校のことはよく覚えてはいない。
小学校3年生の12月8日に太平洋戦争は始まった。
最初の間は勝ち戦だったし、4年生のころまでは内地も空襲もなく 夏、冬の休みには明石まで里帰りしていたし、戦争の実感もあまりなかったのだが、だんだんと負け戦になり、関釜連絡船が潜水艦で撃沈されてからは、ずっと当時の朝鮮で過ごした。
戦時中ではあったが、空襲があるわけでもなく、食料事情なども何の問題もなくて、戦争が負け戦だなと知ったのはニュース報道からで、明石の空襲で叔父叔母が亡くなったこと、母方の伯父がビルマで戦死したこと、明石も岡山もみんな空襲で焼けてしまったことなどは知ってはいたが、住んでいる京城では、戦争とは全く無関係に安全で裕福な生活をみんな過ごしていたのである。
★ 私たちにとっては、昭和20年8月15日、戦争が終わってから、戦争の影響をもろに受けたと言っていい。
まず、8月15日の午後、城東中学校から家に戻ろうとしたが、市電は朝鮮人がいっぱいで『万歳、万歳』とお祭りの花電車のような賑やかさで、とても乗れないので家まで歩いて帰ったりしたのである。
戦時中、京城のまちは静かだったし、当時の神戸などと比べても、むしろもっと立派だったような気がする。
中学校の先輩たちが学徒動員で出征するのをよく見送りに行った京城駅である。
京城駅から直ぐの南大門。
そして南大門から直ぐにあった、京城三越が右の建物である。
少し北には、朝鮮総督府があった。 小磯総督のお孫さんが小学校の学友にいて、彼は『おじいちゃんに会いに』よく総督府の方に行っていた。
これは戦後の写真だと思うがこんなに立派なのである。
中学校1年生までいたので、結構記憶はちゃんとしている。
これは多分南山の上から見た京城のまちである。
後ろの山が北漢山、遠足で登ったことがある。
これはソウルオリンピックの時に、自分で写真を撮ってきた、京城桜が丘国民学校、左の建物は新しいのだが、その右は昔のままでよく覚えている母校である。
そして家から10分ほどで行ける奨忠壇公園、冬の間はずっとこの池でスケートを楽しんだのである。
★みんな昭和20年8月15日までの戦時中とは言え、何の問題もなかった子ども時代なのである・。
それが、8月15日からは一転して、すさまじい変化の戦後がやってきた。
この年の12月8日に引揚げ船で日本に戻ったのだが、故郷の明石は一面焼け野原であった。
お金は一人1000円だけが持って帰れたのだが、朝鮮で1斗100円だったコメが1升100円で、ビックリしたりした。
どのように生計を立てたのかはよく解っていないがみんな本家の伯父が面倒を見てくれたのだと思う。
翌年4月に神戸1中に1年生から入学し直したのだが、当時はまだ疎開先の伊川谷にいて、そこから明石駅まで歩いて電車に乗って灘まで、そしてそこから山の麓の学校までまた歩いて、よくそんなことが出来たなと思うのだが、
昭和20年8月15日からは、そんな生活が新たに始まっているのである。
68年も前の出来事なのだが、こんな経験が出来て、ホントによかったと心底そう思っている。
そんな思い出も、殆ど思いだすこともなくて、毎年8月15日はお盆休みというのが実感なのである。
やはり、平和はいいなと思っている。
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