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川崎単車物語50年 その19 1986年単車再建最終年

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1986年、

この1年はカワサキの単車事業にとっていろいろと大きなことがあった年である。

4年間続いた単車再建の最終年でもあった。

 

個人的な紙の記録も残してはあるのだが、少々生臭いことも多いので差し支えのない範囲でその内容を記述してみる。

 

 

1月 元旦に円は200円を割った。KHI全体の損益も悪化、全社的に人員対策など行われつつあった。ヤマハがPWS(パーソナルウオータークラフト水上バイク)に取り組むと小宮常務が挨拶に来られる。

2月 円は190円、短計は約10億円の悪化、単車構造対策の検討。

3月 国内カワ販の新社屋落成。 円は175円に。今期は△30億円と報告。

4月 J/Sの世界展開ビジネス網構築を推進、J/Sとの関連でヤマハと接近。KMC田崎ー百合草社長交代に関連してKMCの構造計画、販社剰余金対策、円建て計画など本社財務松本常務に報告、承認。

5月 KMC新オフイス完成。田崎ー百合草社長交代発表。円162円に。この対策として抜本的な為替対策としてのKHI /KMC の構造対策を提言、松本常務100%賛成。

6月 高橋鉄郎単車事業本部長、大庭本部長は副社長として本社に復帰することとなった。当時カワサキの2輪エンジンを使ったクライスラーとのC-Project が具体的に推進されていて、特に大庭さんが熱心であった。担当はKMC 百合草。(カワサキの源流と軌跡のP84に百合草さんが具体的に記述している)

7月 円155円に。短期的な損益悪化は避けられない状況になった。

8月 KHI 全体の損益も悪化。 大庭副社長を囲む経営懇談会が開催され全社から若手メンバーが集まる。その会合に出席。KMCで百合草社長以下の新メンバーによる中計の策定2桁の黒字計画、累損消去計画立案。

9月 単車、発動機の合併計画、製造部別会社計画などドラスチックな構造計画。

10月 製造会社別会社案はKHI全体の人員削減策ともマッチし、経営会議で承認された。 (然し、この案はその後実行されなかった)

11月 発動機とに合併は翌年4月1日と決定。

12月 翌年6月、川重大庭社長昇格と発表。 翌年度以降のKMC 計画は非常によく纏ったものに仕上がった。労働組合との中性協で、単車の中期構造計画を説明。労組側から非常によく解った。全社で一番と評価されたりした。

 

 

★1986年は急激な円高が進行し、KHIも含め非常にムツカシイ時期に直面していた。

『海外販社経営の健全化』 を目標に4年間単車の企画室を担当しその実現に向けて対策を進めてきたが、その目標は100%達成され、一番問題であったKMCの経営は、その累損消去計画も具体的に組めて配当可能な販社への脱皮が具体的に進みつつあった。

ただ年初200円であった為替は150円を切る水準まで円高が進行し、その抜本的な構造対策の骨子までは年末にはきっちりと発表できるまでに組み上がっていたのである。私の企画室長としての提言で、本社からも承認される段階まで来ていたのだが、翌年新企画室メンバーに代わってからは、その案は立ち消えになってしまったのである。

● 単車事業としての本社機能の充実

● 製造部門の別会社化

● 為替対策としての円建てへの移行などの新経営構造

大きく言うとこの3つだが、全体の綜合的な構造対策で、仕組みの創造なのでなかなかムツカシイ課題であったことは解るが、実現していればカワサキの単車事業もまた違った形になったのかも知れないと今でも思っている。

 

★翌年4月からは、為替対策の一環として具体的に推進されたのは、

● コストのドル化 を目標にアメリカリンカーン工場への発動機エンジン生産移管

● 為替の影響を受けない国内市場の充実強化

というどちらかというと個別政策に重点が置かれ、私自身は営業部門に異動し、主としてアメリカ市場と国内対策を担当することになるのである。

 

大庭さんが単車に来られた期間、企画部門担当として事業部並びに海外販社の経営戦略を担当したのだが、非常に画期的なオモシロイ時代であったと思う。

高橋鉄郎さんが大庭さんを立てられたし、民需、量産事業の経験のない大庭さんは、下の人たちの立案をホントによく聞いて頂いたと思っている。一般に言われている大庭さんのイメージとは私は100%違ったものを持っている。

単車時代の大庭さんは、下の人たちがホンネでづけづけ発言したこともあるが、非常にフランクにものごとを考えられたし、民需、量産事業を本当に好きになられて本社に戻られたと思う。

それがその後の川崎重工の体質転換にも大いに機能したのだと思っている。

特に川崎重工の人事面では、高橋鉄郎さんは副社長で大庭さんを支えたし、その後田崎雅元、佐伯武彦さんなど当時の単車のメンバーが川崎重工の中枢を支えたのである。

1961年はそんな私にとっては、

単車事業の中枢で、その時期にはそれが川崎重工の最も重要な課題でもあった『単車事業の再建』というテーマを担当出来た最後の年であったとも思う。

 

★川重全体としても、それは目標通りの評価をされたのだと思う。

それは大庭社長、高橋副社長の人事一つを見ても明白なのである。

かって単車事業は川重本社にとって『不信』極まる事業だったのである。

他の事業部が全て『受注生産事業』であることから、『民需、量産事業』の経験者もいないし、単車の言っていることが理解できないそんな段階だったのである。

 

それがKMCの再建に本社部門から大勢の若手がアメリカの現地に出向して、現地販社の経験をしいろんなソフト、ノウハウを身に付けたこと、

再建屋と言われた大庭さんが単車本部長をされて、その本社が送りこんだ大庭さんの発言は、川崎重工としても解らぬままに認めざるを得なかったこと。

大庭さんは、ご自身の意見もさることながら、特に企画、財務などの戦略については、スタッフの進言通りの発言を通されたのである。

その間の私の役割はある意味本社中枢部門に対しての『単車語』の通訳的な責務を担っていたと思うし、殆ど100%意見を聞いて頂けたのがよかったと思っている。

 

私自身は、特に当時の大西副社長、山田副社長、松本常務には、直接いろいろとご指導も受けたし、心底応援もして頂いた。

私の一番大きな目標であったKMCの累損消去は、もう少し後だが百合草社長時代に実現し、

KMC問題に関わった大西さん以下全てのメンバーで、神戸でそのお祝いパ―テ―をしたのが『いい思い出』である。

 

『累損消去、そんなこと俺は聞いていない』と大庭さんは言われたのである。

大庭さんが単車に来られたそのスタート時点は、本社の財務担当者たちも、期間損益が黒字になることぐらいしか思っていなかたはずである。

日本円にして100億円近い累損を消去するなど、誰も考えもしなかったことだと思う。

然し、販社の経営再建など期間損益がちょっとクロになったから再建できたと思ったりするのは論外だと思っている。

当時、私だけかも知れないが、

販社の経営再建は、累損など勿論なく、十分な剰余金があって初めて合格だと信じ、それを目標にすべきだと思ったのである。

 

 

この年以降、私は最も大きな新目標に掲げられた、為替に影響を受けない国内市場の充実強化 を直接担当し、

具体的には『7万台の目標』を掲げて、国内市場を担当することになるのである。

 

 

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