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カワサキ単車物語50年 その15  この激動期にカワサキが得たものは?

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★1982年7月1日、この日に私のカワサキにおける運命みたいなものを感じる。

そして、そこから大変な時期の、大変な役を背負うことになった。

そして、それからの半年で、ほぼ再建の目途はたった。

いろんな人たちが、いろんな方面でその実力を発揮した。

その全体の『仕組みの構築』が私の仕事だったと思う。

それは120%成功して、今カワサキがあると秘かに思っている。

 

これからの4,5年でカワサキの単車事業は変わった。

川崎重工の本社の信頼も得たし、それまで単車のメンバーは川重の役員には殆どその名はなかったのだが、その後、川重の中枢を動かしてきたのは、単車事業に関係したの人たちが、急激に増えて行ったのである。

敢えて言うなら、決められたことを着実にこなす受注産業などに比べて、自らの意思で事業を世界的に展開をする単車事業は、自然に人が育つ経営環境にあるとも言えるのだろう。

そんな始まりの半年間であった。

 

 

 

● 82年7月から、半年ちょっとで全体の仕組みはほぼ完成したのである。

世界に広がる販売会社の損益は間違いなく黒字化する確信が得られた。

その最も大きな課題であったアメリカのKMCに対しては川重本社財務から徹底的な支援体制がとられたのである。

若手中心のプロジェクトチームではあったが、その発想はドラスチックで、とても事業部育ちの事務屋では発想し難いスケールだった。

例えばKMCに山積みされていた在庫車の評価金額は全て中古車市場の中古車価格に再評価されたりしたのである。在庫車と言っても間違いなく新車なのだから、そんな車が中古車価格なら幾らでも売れるし、利益も十分発生する。

それで発生する赤字対策としては2月末に大幅な増減資を行ったのである。

これらの対策は、社長直轄の経営会議の席上で具体的に検討され決定されたのである。

まだ部長格ではあったが、本社財務の同期の横山部長などと一緒に、起案の当事者として会議を片隅で聞かせて頂いたのである。

 

全ての対策が、事業部次元ではなく、川崎重工次元の問題として対策内容の決定がなされたのである。

この時の本社財務の担当常務が、単車事業部企画室長をされていた堀川運平さんであったこと、担当役員の松本新さんが単車事業に非常に好意的であったことが、スムースに事が運んだ一番の要因だったと思っている。

 

 

 

 

 

● この1年間、こんなことを私はやっていた。

事業は大きく動いたのである。

7月には大庭浩本部長が着任されたのである。

 

大庭さんは当時川重社内では『再建屋』と呼ばれていて、経営立て直しを幾つもの事業部で手掛けてこられたのだが、それは全て受注事業部の事業部本体の期間損益の黒字化であって、単車事業のように海外子会社を擁し、その期間損益だけでなく、累損までも消去して優良会社に生まれ変わらせるような『経営再建』は大庭さんにとっても初めての経験だったのである。

大庭さんに、『KMCの累損38Mドルを消去しないと再建とは言えません』と言ったら『俺はそんなこと聞いとらん』などと仰っていたが、ちゃんと説明するとちゃんと聞いて頂ける上司であった。

怖かったが、現役生活の中で一番言うことを聞いて頂いたのは大庭さんだった。

私を始め企画を担当する連中にとってみれば、大庭さんが下の意見をちゃんと聞いて頂けることが如何に励みになったことか、旗を振るために高橋鉄郎さんにお願いしたのだが、さらに強力なリーダーを得て、単車事業はこの1年でほぼその目途が立ったのである。

ただ、大庭さんにちゃんと説明するのが、なかなか難しいのだが、それは私の特技みたいなもので、当時の企画スタッフが出す提案の説明役と言うか、大庭さんへの説得役は、殆ど私がやっていて、それが私の仕事みたいなものだったのである。

 

7月に来られて、9月のはじめの本社幹部との単車懇談会の席上、

大庭さんから『単車は、思ったより確りしている、川重のなかで、将来性のある事業である。』と発言頂いたりした。

 

 

★これからの数年で単車は確りと再建され、大庭さんは川重本社に副社長で戻られ、単車事業本部は初めて単車事業の中で育った高橋鉄郎事業本部長が、川重の取締役にも昇進されて、その経営にあたることになるのである。

いろんな評価はあるのだろうが、大庭さんが世界展開の単車事業を経験されたことは、川崎重工業にとっても非常に大きなことだったと思う。

自らの意思で事業展開をする単車事業は、受注事業にない厳しさをいっぱい持っている。

川崎重工の重厚長大の体質の中に幾らかでも民需産業の血が注がれたのは、大庭社長になってからだろう。

その後、副社長以上でだけでも大庭―高橋―田崎―佐伯ー三原と多くの単車メンバー達が川重を引っ張った。みんな海外事業や子会社とは言え社長経験者なのである。

田崎雅元社長時代は、川崎柔工業を目指したりしたし、何よりもバランスシートの中味が飛躍的によくなったのである。

 

そして、今年7月に、副社長になられる

松岡、高田両副社長はともに単車経験者で、特に松岡京平副社長は、

この1983年時代、本社財務からKMCに出向し、38Mの累損が完全に消えたKMC百合草社長時代まで、KMCの企画スタッフとして頑張ってくれた仲間なのである。

 

 

★大庭さんが単車に再建屋として来られた時、

、『KMCの累損38Mドルを消去しないと再建とは言えません』と言ったら『俺はそんなこと聞いとらん』といわれたのだが、

多分、本社の大西副社長以下財務のトップの方たちも、まさかKMCの38Mの累損が、消去出来るとは思っておられなかったのだと思う。38Mドルとは為替の評価で異なるが日本円にして百億円近いお金なのである。

この累損が消去された時、大西副社長以下の当時の関係メンバーで神戸で盛大なお祝いの会をやったのである。

出来る出来んはよく解らなかったが、大庭さんに『38Mの累損を消去しないと再建とは言えません』とその目標を挙げたのは私だが、

それを本当に頑張って実現したのは田崎社長の後のKMC百合草社長時代で、その中心になったのはカワ販から出向していた富永、日野、そして本社財務から出向してた松岡京平くんなどの当時の若手諸君なのである。

 

★単車事業は安定期には経営を支え活気づけるのは、間違いなく『商品』なのである。

事業の仕組みさえ確りしていれば、いい商品を適正に供給し、上手に販売すれば安定した経営が見込める事業だと思う。

然し、量産事業は一つ間違えば、大きなリスクを背負っている。

昨今のパナソニックや、シャープを見てもそれは明らかである。

あのような状態になってしまうと、その基本の仕組みが、時代や事業規模にあったものでないと、人の努力や、商品だけではどうにもならないのである。

カワサキがあの時期、あの危機を乗り越えられたのは、みんなも頑張ったが、仕組みや資金の力がなかったら、努力だけではどう仕様もなかったと思っている。

 

そんな知恵が、何となく川崎重工の体質の中に残っていたのだが・・・・

ちょっと薄れたかな? と思っていたら今回は松岡、高田とまさに単車出身の経験豊かな副社長なのである。

 

大庭―高橋―田崎―佐伯ー三原 と続いた単車のいいところを、もう一度、松岡―高田ラインで復活して欲しいものである。

30年前の単車の激動期を思いだしながら、

あれからさらに30年の経験を積んだ人たちに、川崎重工のカワサキの将来を託したいなと思っている昨今である。

 

余談だが、松岡京平くん、早い時期からのNPO The Good Times の会員さんなのである。

 

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