★ここに至るまでの経緯は、『その13』以前にも書いた通りで、
カワサキの単車事業からの撤退が、ホントに真剣に川崎重工業の社長以下トップ並びに財務部門で検討されていたのである。
多分、問題はこんなところにあったのだと思う。
● 当時は造船部門が好調で、単車事業本部だけの赤字額なら、造船部門の利益の中で十分相殺も出来るし、経営会議などでの検討の枠内なのだが、その外にある海外販社の赤字は、販社経営の経験者など殆ど居なくて、『どのように解決すべきなのか?』その術が解らなかったのだと思う。その赤字の額が100億円を超えるレベルになると、連結決算で川崎重工業の損益に加算されるので、いろいろ対策を打ち、高橋鉄郎会長、田崎社長体制として、さらに財務部門が100億円の資金を投入したのに、1年目は何の効果も現さなかったのである。事実川崎重工は無配に陥ってしまったのである。
● 私はヨコから眺めていただけだが、これはトータルの特に財務、資金のシステムがバラバラのために起こっているので、全体の構造を解決する『トータルシステム』が中央で、創り上げることが出来たら『簡単に解決できる人災』だと思っていた。 これは独り川重だけではなく、日本の個別最適地を集めたら、全体最適地に繋がる。という錯覚のなせる術で、『みんなが頑張ればよくなる型』の発想は、単純な経営なら大丈夫通用するのだろうが、世界展開の二輪事業などではムツカシイと思っている。
●当時の単車事業の最高責任者であった山田熙明専務に突如本社に呼び出されて、意見を聞かれたので『直ぐよくなると思います』と言ったら、お前が『企画をやれ』と言われたのである。その時つけた条件の一つが、『KMC の会長をしている高橋鉄郎さんを企画室長で呼び戻して欲しい』だったのである。
●『トータルシステムの構築』はアタマの中にあっても、それを全軍に指揮するには、それなりの職位、格がナイと機能しないのである。人望熱い高橋鉄郎さん以外ではダメだと思ったのである。
そんな私の要望は聞き入れられて、1982年10月高橋企画室長、古谷企画部長の新企画室がスタートし、そこに集まったメンバーは、北村敏(昭和34年入社)、武本一郎、大前太、五十百寿夫(昭和35年入社)さらに若い前田、佐藤、繁治君など全くの若手たちだったのである。
青野事業本部長の時代で、企画室以外は安藤技術部長、酒井製造担当理事、田村製造部長、桑畑品証部長など、先輩部長が顔を揃えていて、これは高橋鉄郎さんでないと、新米部長では旗が振れないのである。
★具体的な仕組みは、直ぐ実行し3か月後には機能し6か月後には軌道に乗った。
全て企画室の数人で検討決定し、世界の販社にそのシステムを適用したのである。特に田崎社長のKMCとは明石側も万全の体制で臨んだのである。
その基本的なコンセプトは『中央コントロールシステムの構築』の一語につきると言ってもいい。全ての具体的な計画を明石で組めるように仕組んだし実際にそのように実行した。極端に言うと世界の販社の経営責任を全て明石が担う代わりに、各販社はその方針に基づいた実行責任だけを持たせたのである。
●まず、一番最初に創ったのが世界の販社を指揮し管理する『関連事業部機能』である。この組織は今でも存在するが、11月には正規組織としてスタートした。
●従来は、各社の事業計画は現地で創り、それを集計する単なる『ホッチキス機能』だったのだが、大まかな数値、と利益目標などは、関連事業部で策定し、それを現地が検討すると言う方向に、抜本的に改めた。事業全体の数値概要の数値を一番最初に知っているのは明石の本部になるように仕組んだのだえある。
●最も大きかったKMCとの関連は、まず本社財務の若手が現地調査や在庫の状況などを調べて、その対策としてのKMCへの増資、180日ユーザンスの新たな設定を12月末までに行った。
●』さらに現地の銀行借入金の削減など、営業外損益事項や、膨大な在庫の含み損の手当てなど、その殆どの対策は全て6ヶ月の間に終了して、今後の新たな損失は発生しない体制が半年で完成したのである。
●KMCの膨大な赤字と言っても、その殆どが営業外で、要はバランスシートの問題なのである。当時はアメリカの金利が20%に近い時代で、300億円近い借入金の金利だけでも60億円にもなるし、膨大な不良在庫なども、その含み損手当てを一括で行ったことにより、逆に売れば利益の出る体制になり、どんどん寝ていた不良資産が現金や利益に変わっていったのである。
もう少し単純に言うと、
商売とか販売は、どんな規模でも成り立つのである。得てして頑張り過ぎて失敗してしまうのである。
だから、商売で、販売で赤字になるなどは、全て人災だと思っている。
★単車事業部の中ではホントに数少ない、このようなことが解る数人の経験者によって、このシステムは創られそれが運用されたのである。
そしてKMCの現地には本社の特別対策メンバーとしてこんなメンバーが派遣され徹底した現地調査が行われたのである。
(資金部外資課 松岡京平とあるのは今回川崎重工副社長になった松岡君まだ係長当時だったと思う。小川優君は今のNPO The Good Times の監事で手伝ってくれている小川君なのである。)
これら本社チームの調査と。その対策提言が本社中枢部を動かしドラスチックな対策となったのである。
●もう一つ特筆したいことは、高橋鉄郎さんの会長時代に『カワ販も手伝ってくれ』と頼まれて、富永、日野と言う当時のカワ販の最優秀コンビをKMCに送りこんでいたのである。
川重の事務屋さんは優秀なのだが、販社の実務については経験がないので、全ての対策が、『説明からスタート』なのである。当時のKMCの経営の中枢にいた富永ー日野コンビなら、説明抜きでより高度な展開が可能で、私がちょっと言えば直ぐ理解できたのである。
彼らは田崎社長時代から次の百合草社長時代までKMCにいて、見ごと100億円に近い累損まで綺麗に消去してカワ販に戻ってきたのである。富永邦彦君が田崎さんの九大の後輩であったこともよかったのかも知れない。
★このあたりのことは、当事者以外殆どの方がご存じないことである。
私は企画部長ではあったが、その80%はKMCのことをやっていた。
基本的には、私と田崎雅元さんとは、この時期の単車事業の大問題を一緒にかついできた仲で、ホントにひょっとしたら私がKMCにと言う案もあったようで、兎に角援けねばならないと思っていたのである。
このKMC問題は、営業外対策さえちゃんとやれば大丈夫と確信していたので、技術屋さんの高橋さんと、田崎さんにバランスシートを教えた先生は私なのである。高橋さんから『お前の説明はよく解る』とお褒めを頂いたりした。
余談になるが、田崎さんは私の教え子であるのは事実だが、今では私より数段上の財務知識をお持ちである。川崎重工の歴代社長の中で川重のバランスシートの中味を飛躍的に改善したのは、田崎さんなのである。それはあんまり言われてはいないが、彼の社長時代の最初と最後のバランスシートを見ればそれは歴然なのである。
これは私の日記などから
当時のカワサキの中枢の動きを纏めたものである。
7月1日の朝、突然呼びだされたが、12月末大体の枠組みは出来て再建の目途は立った。
ものごと、半年あれば大体のことは出来る。
半年経っても出来ないものは10年経ったら出来るなどの保証はない。
これは私の哲学みたいなものである。
翌年から、いよいよ具体的な動きに入っていくのである。
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