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カワサキ単車物語50年 その12 ダンピング問題

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★1976年は、小型車問題での市場開発プロジェクト問題に明け暮れて11月には『市場開発プロジェクト室』が発足しこの問題については具体的に動き出すのである。

そして1977年4月には、市場開発プロジェクト室がヨーロッパ営業部を吸収する形で、高橋鉄郎営業総括部長体制となった。

 

この時点での各販売会社の体制は

国内のカワサキオートバイ販売は田中社長、苧野専務、清水屋、加茂常務などこれはずっと上の先輩ばかりで、その体制は400名を有していた。

アメリカKMCは、浜脇洋二社長で、浜脇―マセック体制がまだ続いていたが、その経営には多くの陰りが見え出した時期である。

その他のヨーロッパなどは、

UKが内田博社長(昭和34年入社メグロ出身)KMG 種子島経(35年入社) KMA 井川清次(38年入社)などの若手社長で、東南アジアのメンバーもみんな若手ばかりだったのである。

事業部中枢としては、私(32年入社)田崎雅元、那波義治(33年入社)などが企画、営業部門にいて、

事業本部の今後の方向などについては、こんなメンバーの意見が結構ちゃんと反映されるそんな状況だったのである。

 

 

★ 昭和53年(1978)4月には、非常に大きな職制変更が行われ、実質的に単車事業部の新体制でのスタートが切られることになるのである。

 

その大改組は、

● 事業本部長は塚本碩春本部長のままだったが

● 山本副本部長、酒井企画室長と川重他部門からの移籍があり、堀川運平企画室長が本社財務に戻られたのである。

● そして単車事業部と発動部事業部に分かれて, 高橋鉄郎単車事業部長、前田副事業部長体制となった。

● さらに従来の単車の中枢として活動されたKMCの浜脇洋二、Z開発の大槻幸雄、CMCの田中秋夫さん3人が単車事業部を去られたのである。

● この時点でのアメリカKMCは山田晴二社長、高橋宏副社長体制になった。

 

そういう意味で、単車事業の第1期は、ここで終わり、新体制がスタートした と言うべきなのかも知れない。

 

●そして単車の企画とも言うべき管理部は

古谷、田崎、野田、坪井の4課長体制となって、私自身は1年で企画を離れたのだが、半年でまた本社などとのお付き合いのある管理分門を担当することになるのである。

私自身も入社20年となり、その他の若手課長もそれなりの単車事業の経験を積んで、それぞれが広い範囲で活動を展開するそんな時期になったのである。

ただ単車事業の経営環境はなかなか厳しくて、特にアメリカ市場中心で伸びてきたカワサキとしては、

そのアメリカ市場で起こったハ―レ―のダンピング訴訟問題が、国内市場の対策を巻き込んで大きな問題となるのである。

 

 

★この時期に、高橋さんから『事業部の長期計画策定』の指示が出たのだが、そのメモである。

この指示書の中にもあるように、この時点ではまだ、CMC計画(小型車プロジェクト)はまだ生きていたのだが、東南アジアのCKDプロジェクトが順調に進んだこともあって、高橋さんの頭には、明石で完成車として生産する小型車は、あくまでも戦略的な車種に位置付けたいと言うのが本音だった思う。

私自身はこのプロジェクトはリスクが大き過ぎると思ったので、東南アジアのCKDプロジェクトを推進したもので、

この時期に技術部に開発提案したKH110 (GTO)が軌道に乗れば、そちらの方を主力に進めたい と思っていたし、現実はそのような思惑通りに推移してゆくのである。

 

 

高橋事業部長の指示に対して、7月末にその素案を30ページぐらいのものに纏めているが、この素案の大綱は認められたのだが、

私自身が9月からはダンピング対策で 国内対策の方に巻き込まれてしまって、この長期計画は正規計画としては認められたものにはならなかったのである。

 

 

単車事業部の現状を次の7項目に纏めている

1.総括  2.売上高規模  3.シェア  4.諸費用  4.損益分岐点と限界利益率  5.直販会社を含めた事業規模 6.シーズン性と労務問題

 

その中の総括の部分だけご紹介すると

● 昭和50年までは、アメリカ中心に順調に事業は伸張した。

● 昭和51年以降は、北米偏重を脱するべく欧州市場、東南アジア市場などで台数的には50%になったが、利益的にはまだまだ不安定。

● 経営環境としては円高に加え、輸入規制と表現しているが、アメリカのダンピング訴訟など厳しい。

など大変だったのである。

 

 

 

 

★ダンピングとは、なかなか難しいのだが、以下のような解説がある。

 

 

 ダンピングとは、ある商品の輸出向け販売価格が、その商品の国内販売価格を下回る状態のこと。

1997年以降、米国は日本などの鉄鋼輸出に対し、米国鉄鋼メーカの提訴に基づき13件のアンチ・ダンピング調査を開始した。

 

 

要は、日本での国内価格に対して、アメリカで売っている価格が『安すぎるのではないか』という提訴なのだが、

その価格を単純に比較するだけではなくて、日本での流通経費の価格に占める比率が、アメリカの流通経費比率に対して高過ぎる場合は、それを認めない と言うようなことなのである。

日本の流通経路は、メーカー 地方代理店(販売会社)―販売店 −ユーザーなのだが、当時のカワサキだけが、別にカワサキオートバイ販売 があって他メーカーに比べて、その流通経費率が高くなるので、このままでは、ダンピングが成立する可能性があると言うのである。

そういう意味でアメリカで起こったダンピン訴訟なのだが、それがカワサキの場合は国内販社体制の問題になったのである。

 

このようなややこしいダンピング訴訟問題を担当していたのが、事務屋ではなくてアメリカを担当していた技術屋の田崎雅元さんだったのである。

勿論、中心市場のアメリカの問題なので、本社財務のメンバーも一緒になってその対策を起案したのだが、経験のない販売会社の構造対策なので、

トータルの経費率を下げると言う問題は、そんなに簡単には行かなかったのである。

さらに、カワサキオートバイ販売と言う会社のそれもトップの人たちの体制が中心課題になるので、そこに10年も出向していた『古谷はちょっと外れておけ』と気を遣って頂いていたのだが、なかなか具体的な対応策が見つからず、船が山に登ってしまうようなそんな状況になったのである。

 

★9月半ばになって、突如塚本事業部長から、『この問題を手伝え』と言う直接の指示が出て、このカワ販問題に没頭してしまうことになるのである。

以下の資料が2週間で纏めた提言書である。

その項目にあるように、

6月の常務会で大筋が提案され承認されて進んだのだが、9月18日に纏めた常務会資料で財務本部との間で、了解が取れず頓挫してしまったのである。

 

私の纏めた提言の方向は、6月の常務会の承認の方向をひっくり返してしまった、全く新しい方向だったのだが、

なぜ、そうでなければならないか、

どこに問題があるのか、

その対策案も含めて、

『対策の方向』を纏めたものである。

 

これを塚本本部長に答申したら、その方向でいいと仰るので、10月からはこの問題に専念して12月末までに仕上げ、

経営会議、常務会の承認も得て、翌年1月1日には国内の新体制がスタートするのである。

 

 

 

これを塚本本部長に答申したら、その方向でいいと仰るので、

10月からはこの問題に専念して12月末までに仕上げ、経営会議、常務会の承認も得て、翌年1月1日には国内の新体制がスタートするのである。

 

そんなことで、開発途上国の市場調査からスタートした新体制での営業や管理部門の仕事も9月でおわってしまって、、10月からは国内の構造改革問題に没頭することになるのである。

これは国内対策と言うより最も大きなアメリカ市場対策と密接に繋がっていて、本社財務部門の長大西副社長管轄だったので、新体制スタート後毎月大西副社長への直接報告が義務付けられた、そんなレベルのプロジェクトだったのである。

 

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