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カワサキ単車物語50年  その5  川崎航空機時代の国内対策

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★ 昭和40年(1965)がカワサキが本格的に単車事業を川崎航空機の経営の一つの柱とすべく決心をした年と言っていい。

従来の国内市場一本からアメリカ市場開拓を大きな柱にA1などの新機種も開発されて、カワサキにとってはアメリカ市場での華々しさが非常に顕著な時期ではあったが、日本国内に於いても販売会社や明石工場内での事業運営体制が着々と整備されていったそんな時期、そのころは未だ川崎航空機だったのである。

 

『販売会社体制』

★メイハツ、メグロの人たちが中心のカワサキ自販が東京に本社機能を持って全国を統括していたのだが、

カワサキオートバイ販売に社名変更すると同時に、その企画中枢を東京から明石に移したのである。それは、岩城良三常務が自ら社長を兼務されて、当時の川崎航空機の事務屋の精鋭たちが、集められたことから始まったと言っていい。

その中心となった営業企画部門には本社から川崎航空機再開の定期採用第1期生の矢野昭典さんが赴任され、誰が見ても会社としてここに全力投球だ ということが解るそんな体制だったのである。当時アメリカを担当された浜脇洋二さんも東大だが矢野さんはその1期上で本社人事課長からの異動であった。

販売促進部には販売促進課と広告宣伝課が創設されたのだが、販促が八木健、広告宣伝課が私、いずれも未だ係長にもなってもいないのに、出向先とは言え、異例の課長抜擢だったのである。特に販売促進課には、八木健さん以下、北村敏、野田浩志、前田祐作、岩崎茂樹、鍋島秀雄と当時の川崎航空機の事務屋のトップクラスが集められたと言っていい。ただ、確かに潜在的な能力は優秀だが、バイクに関しては全くの素人ばっかりだったが、後々事業の中心的な役割を果たした人たちであったことは間違いない。

 

私が担当した広告宣伝課は、誠に対照的な高校卒の実務派ばかりで、かって野球部のマネージャーをやっていた川合寿一さん、営業の実務派大西健治さん、技術部のデザインルームから榊くんなどが明石で、東京にはカワサキ自販以来の広告宣伝課のメンバーの下原さん以下がいて、主として東京モーターショーを担当していた。担当する範囲は、単なる広告宣伝でだけではなくて、当時のファクトリーレース活動をカワサキのイメージ戦略と位置付けて、契約ライダ―達は全員が広告宣伝課の嘱託として名を連ねていて結構な人数だったし、当時のライダーたちはやんちゃなのも多かったので、エリート揃いの販売促進課に比べたら、おもろい元気なのばかりの集団だったのである。

カワサキ自販時代の企画戦略の中枢であり、カワサキコンバットの産みの親、私にも大きな影響与えた小野田滋郎さん(フィリッピンの小野田寛郎さんの実弟)は、この機に退社されたのである。

ただ、広告宣伝費予算は、本社から事業開発費として1億2000万円もの膨大な予算が3年間与えられていたのである。これは単車再建のための市場調査を行なった日本能率協会が事業再建の条件の一つにあげたもので、当時の単車事業の総売上高が10億円そこそこの時期に1億円を超す額は普通では考えられない額なのである。サラリーマンの年収が40万円ぐらいの時期だから、その額の大きさがお解り頂けるだろう。1年目は7000万円しか使えなくて、『お前らは金をやってもよう使わん』と本社専務にオコラレタリしたのである。

こんな予算を目当てに、大広、電通、博報堂などの広告代理店は神戸の支店ではなくて、本店の企画メンバーが担当で、当時の日本のマーケッテング関係ではトップクラスの人たちばかりの超エリートメンバーでもあった。この時期この人たちから得たマーケッテングのノウハウなどは、カワサキにとって大きなソフトの資産になったことは間違いない。

広告宣伝の世界では、例えば『カワサキ』と言う4文字のレタリングを『ちょっと有名な人にやって貰いましょうか』と言うので『そうしよう』と言ったら、オリンピックのポスターのデザイナーの亀倉雄策さんの見積が出てきて、そのデザイン費用が7000万円だと言うのでビックリしたリした。

本来の広告宣伝のテレビ番組などは、1億2000万円あっても簡単には使えない額だし、何よりも当時のカワサキの主力市場は実用車が主体の田舎ばかりで、東京、大阪、名古屋地区は要らない と言うものだから、テレビも、新聞も全国版は使えないのである。だから地方紙ばかり50紙をかき集めて広告したり、現実的なライダ―の契約金をちょっと弾んだり、中古のヘリコプターを所有して、地方のイベントやレース会場に参加したり、結構派手にはやっていたのである。

少なくとも、私の現役生活で、一番自由に金が使えた3年間であったのである。

広告宣伝価格と言うのは、その効果などが基準で、『カワサキ』と言う4文字はどの広告にも使われる『広告のもっとも基本的な4文字』だから高いので、これがZEPHYR のような商品名であったりすると、7000万円と言う値にはならないのである。同じタレントさんを同じ時間占有しても、それを全ての媒体に使う場合と、雑誌だけに使う場合では値段は違う、そんな世界なのである。そんな発想の仕方も、広告を本格的にやって広告代理店の本社の連中と付き合っていろいろ教えてもらったのである。

 この時期、カワサキの独特のイメージ創造にレースの果たした役割も大きくて、競合3社に対して何一つ1番になれるものがない時期に、レースだけは互角以上に戦ってきたのである。

三橋実、安良岡健、山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫、星野一義のほかロードレースライダーの金谷秀夫など錚々たるメンバーが広告宣伝課の嘱託社員だったし、当時厚木にあったカワサキコンバットには月20万円の選手養成費を渡し、全国から有望ライダーを集めて育成に務めていて、星野一義などもその中の一人で全部で何人いたのかはよく解らなかったのである。年間契約金もトップライダーたちには100万円を越す金額を払ったが全体の広告宣伝費の予算から言えば大した額ではなかったのである。

広告宣伝的な効果としては、何度も全日本MXを制覇したし、『赤タンクのカワサキ』と一世を風靡したレース活動は、その後もカワサキのイメージ創りに大いに貢献したと言えるだろう。

 

 (MCFAJ全日本MX 朝霧高原、ヘルメットにタテの1の印はカワサキコンバットの選手達。 山本隆、歳森康師の二人は神戸木の実クラブ、星野一義もいるから多分昭和41年度の春、全日本の写真である。)

 

★第1線の販売網対策として、、特に兵庫県などは幾つもの営業所を造り、川崎航空機から多くの人たちが出向し、現場第1線の経験を積んでいったのだが、みんな二輪の営業などは素人もいいところで、運転免許の取得から始まったりしたのである。

このころの先生役を務めたのが、兵庫メイハツから参加した平井稔男さんなのである。

だから、彼は『カワサキの真打ち』と自ら称しているのだが、言われても仕方のない実績なのである。後々カワサキの国内の二輪もジェットスキーの販売の中核を果たした藤田孝明君などもこのころからの参加で平井門下生の一人なのである。

さらに昭和41年度からは、カワサキオートバイ販売としての定期採用者の採用を開始するのである。その第1期生が昭和41年度の富永邦彦、渡部達也さんの二人だが、42年度は大量な採用で、これらのメンバーがその後のカワサキの国内市場を支えたことは間違いない。

この時期に、国内市場としての販売台数はそんなに芳しい結果は残してはいないが、単車事業を進める上での基本的なノウハウなど、全くの素人から、それぞれが身につけて行ったことがその後の事業展開に貢献したのである。

昭和40年から45年までの創成期の初期は、未だ地方代理店の時代であったが、その先駆者としては、後イギリス、、ドイツなどヨーロッパ市場を開拓し、カナダも担当した内田道夫さんを挙げねばなるまい。彼は元々メグロの出身だが、当初は北陸の代理店を担当し、後岡山に移った後川崎重工に移籍してヨーロッパ市場開拓の先駆者となるのである。営業だけでなく、レースにも熱心で、カワサキが初めて鈴鹿を走ったジュニアロードレースには山本隆とともに走った塩本選手を北陸から送ってくれたのである。イギリスの社長時代もヨーロッパのファクトリーレースをケン鈴木さんなどと引っ張り、カワサキのKR時代を演出したのである。

川崎航空機から最初に現地に出たのが井川清次さんで、当時の全国カワサキ会会長の荻原さんがおられた山梨カワサキに出向した。後ドイツの社長などを務められている。さらに、野田浩志さん(後アメリカKMC社長)が長野県のデ―ラ―に出向したし、営業企画部長の矢野さんご自身も岩崎茂樹くんと九州事務所を創って博多に出向されたのである。

そして私自身も、当時カワサキ最大の市場であった東北6県も担当として仙台事務所を創設するために仙台に異動となったのである。

後UKの社長などを担当した永友節夫さんや中島直行さんなどもこの時期の現地出向組なのである。

 

 『明石の工場体制』

 ★この時期には明石工場内の体制も、大きく整備されていったのである。特筆されるのはサービス、品証体制と部品補給体制だと言っていい。

まず、サービス体制だが、昭和36年(1961)12月、私が単車の営業に異動した時にもサービス機能はあったが、吉田、福田、福井のサービス員3人だけの体制だたのだが、昭和40年JET部門から田村一郎さんがサービス部門に来られてから急激にその体制強化が図られたのである。

単なるサービスから、品質保証と言うコンセプトも含めて、現地第1線にいたメイハツ、メグロの経験者や当時の開発のテストライダーたちもその傘下に入って綜合的なシステム構築がなされたのである。田村一郎さんは、ユニークな人が揃っている単車グループの中でも突出した存在で、カワサキの単車では誰知らぬ人はいない有名人である。

その田村さんが一番最初にされたのは、当時の兵庫メグロに弟子入りして、自ら二輪の整備技術を学び、『整備士2級』の難しい資格を所得することからはじめられたのである。そんな実戦的なところがすごかったし、いろんなサービス関連の冊子などを作ったりするのに、広告宣伝費をと仰るので、当初の立ち上がりは結構な額を提供したのである。

下のメンバーもテストライダーには清原明彦、山本信行の今では有名人も揃っていたし、ユニークでオモシロイ人いっぱいだった。

この時期に、カワサキのJ1が富士登山に成功したことなどご存じの方はおられるだろうか? 

これにチャレンジしたのが、当時の品証の福田、加藤さんなどのメンバーである。加藤さんとは今の八尾カワサキの加藤さんである。確か、夏休みの時期だったが、山頂まで登って、ちゃんと写真を撮ってきたら、成功報酬で広告宣伝費で費用を見てあげると言う約束でのチャレンジだったのである。当時のレース職場でモトクロスタイヤを装着したりして、見ごと成功、当時のオートバイ誌にちゃんと写真付きで収録されている。昭和40年ごろの話である。

現場のサービス員3人でスタートしたサービス部門だが、この時期以降、単車事業の骨格の部門となって行くのである。

 

もう一つの部門が、部品部門と言えるだろう。この部門もメイハツから来られた正垣さんたちが、何となく細々とスタートしていてたのだが、アメリカの市場を経験された桑畑禎文、田崎雅元さんが担当して、急激に様変わりして行くのである。

アメリカの部品流通システムなども経験されたのだろうが、それ以前のJETエンジン部門で、アメリカ的な管理方式は、既に基礎として身についていたのだと思う。当時建てられた部品の自動収納、自動取り出し方式の倉庫は、50年近くたった今もそのまま使われているような当時としては画期的なシステムだったのである。

部品NOの付け方などもカワサキは車種から始まるものではなくて、JETの部品と同じ、部品そのものからスタートする先進的なものが使われて、その後の部品の共通化などの対策が容易に行われたのである。この時期の単車事業部の技術屋さんは、JET部門から来られた方が中心で引っ張ったので、生産関連はJET部門の当時では新しい管理方式や発想が次々に採り入れられたのだと思う。

『航空機の技術』と当時の広告にはよく使われたコピーだが、商品だけではなくて生産技術にも、それは活かされていたのである。

 

★昭和40年からの5年間、国内の販売や工場の体制は、このように着々と進行したのである。

クルマで言えばA1からH1ぐらいの時期、未だ川崎航空機であった時代であった。

『カワサキのイメージ、カワサキの単車事業の基盤』は川崎航空機時代に創られた と言っていい。

昭和44年に3社合併があって、川崎重工業となり、Z1が発売されてまたちょっと違ったカワサキに向けて進んで行くのである。

 

 

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