★ 今年は2022年だが、もう6月も終わりに近く、あと半年を残すのみとなったが、 今年はどうやら後半の6か月が忙しくなりそうなのである。
もう旧い話だが、カワサキの名車Z1が発売されて50周年になるので、 今年の11月19日に明石のキャッスルホテルで「カワサキZ50周年祭」というイベントをやろうということになり、 大槻幸雄・山本隆さんと私がその発起人ということになったのである。 この「カワサキZ50周年祭」の具体的な企画・運営は、 KAWASAKI Z1 FAN GLUBの登山道夫・向笠暁彦さんが中心で進められることになるのだが、 今月第1回の打ち合わせ会があり、私との3人でその概要だけが決まったのある。 7月中旬に第2回目の会合があるので、更に具体的なことが決まっていくことになるだろう。
★ カワサキの二輪事業は1960年(昭和35年)に明石工場内に一貫生産工場が建設されてスタートするのだが、当時の発動機事業部の営業部の中に単車営業が初めてスタートしたのは、翌1961年12月半ばのことである。その新しくできた単車営業課に私は異動・赴任することになるのだが、実際に業務が動き出したのは1962年からで、当時売られていた車は、125㏄B7とモペットM5だったのである。
この車はエンジンは川崎航空機の技術部で開発されたのだが、フレームは明発工業が担当しそのフレームの欠陥で、大量の返却車が出るという大変な事態だったのである。 私が営業に異動した翌年1月には大量の返却台数のため、「マイナス17台の生産台数」を記録したりしたのである。
そんなカワサキ単車の営業活動がスタートしてからは60周年で、私にとってみれば「単車スタート60周年」なのである。 もう当時の上司も、当時の仲間の方たちも殆どが亡くなられてしまっていて、 当時のことを語れるのは、開発・生産分野は兎も角、企画・広報・営業・レース関連などは、 極端に言うと私だけになってしまっているのである。
★ただこの1962年はカワサキにとっても、私自身にとっても非常にラッキーな記念すべき年で、9月には125ccB8の発売があり、この車が実用車としては非常に好評で、B7の不評に代わって好調に売れ続けたのである。
個人的なことだが、この年の12月に私は結婚しているので、今年の12月21日まで生きていたら「結婚60周年」にもなるのである。
鈴鹿サーキットが出来たのもこの年で、1962年11月には日本で初めてのロードレースが開催されたのだが、そのレースを製造部のメンバーたちがバスを仕立てて観戦に行き、ロードレースなるものを初めて見て感激し「カワサキもレースを」と翌年の青野ヶ原モトクロスに出場するのである。その結果は予期せぬ1位から6位まで独占する完全優勝という結果となって、このことがカワサキ単車事業の本格的な事業進出に繋がっていくのである。
★この辺りの裏話を含めて、カワサキの単車事業の黎明期の話を、11月の「カワサキZ50周年祭」には私が皮切りにお話することになっているのだが、このZ50周年祭の発起人の一人である山本隆さんは、この青野ヶ原のモトクロスにはプライベートで出場されているのである。
後、カワサキのファクトリライダーとなって、3年連続日本モトクロスチャンピオンになった山本隆がなぜ6位までにも入れなかったのか?この辺りの話は、当日山本隆さんが語られるかも知れない。
この会合はまだ4か月も先のことなのだが、Zの開発総責任者の大槻幸雄さんを中心に、盛大な「カワサキZ50周年祭」とすべく準備が進められていて、KAWASAKI Z1 FAN GLUのメンバーたちには昨日公表されたようだが、私や山本隆さん関係は、7月中旬に予定されている第2回会合のあと順次具体的にご連絡することになるのである。
これがZ40周年のいイベントを三木で開催した時の写真だが、今回の50周年はさらに盛大な会合になるように頑張りたいと思っている。
今年の後半の大きな出来事になることだけは間違いなく、私個人にとってはカワサキ単車の事業スタート60周年のイベントになり、人生最後のイベントになるかも知れない。そんなことで 「カワサキZ50周年祭」として、11月19日の当日のイベントまで、その推移をt連載で、纏めてみたいと思っている。その第1回の記事なのである。
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