★新入社員時代の仕事の想い出を3回に亘って書いてきたように仕事のほうも熱心に取り組んでいたのだがこの間個人的には家内との出会いがあって、こちらの方も日記の中には数多く登場するのである。
川崎航空機に昭和32年(1957)4月に入社して、新人教育が2週間ほどあって、4月15日に業務部財産課への配属が決まるのだが、その業務部には庶務課・会計課・財産課・勤労課があって、その職制順に課が並んでいて、財産課の隣が勤労課で、その給与係はすべてが女性なのである。
日記を読み返してみると、配属された4日後の4月19日の日記に「勤労課にいる女の子にちょっと惹かれる」という記述があって、それが家内なのである。
そして6月5日には高校・大学での野球部の友人の小野田から電話があるのだが、それがなぜか勤労課に繋がって、「小野田さんと言う方から電話です」とわざわざ私の席まで伝えに来てくれたのが家内なのだが、そのことを日記に記しているのである。
それはそれで終わってしまったのだが、この年の11月に朝明石駅で一緒になって初めて口をきいたのだが、当時会社に勤めていた女性は明石より西からくる人が殆どで、東からの人は珍しかったのだが、彼女は東からやってくるのである。何となく神戸高校タイプだなと思っていたのだが、聞いてみると神戸高校なのである。私は旧制神戸一中なので後輩にあたるのだが、その時もそれだけで終わってしまったのである。
★そして年が変わって翌年の5月末にたまたま神戸まで出たら、同じ電車で三宮で一緒になったので、映画に誘ったら即OKで、映画を見て御茶を飲んだのだが、これが初めてのデートだったのである。その時の感触がよかったので、6月7日に改めて誘って、その時は三宮にあった本格的なダンスホール新世紀に踊りに行ったのである。私はダンスには大学時代に凝っていて得意分野だったし、新世紀ではいい時間が過ごせたのである。この時新世紀には会社の人が来ていたようで、その週のうちに会社では話題になったようなのである。
そんなこともあって、それ以降は逆におおぴらにお付き合いが始まって、7月10日は彼女の誕生日なのだが、彼女のほうから誘われて、21歳の誕生日を一緒に過ごすことになったのである。
★交際が始まってから2年間ほど密接なお付き合いが続いたのだが、昭和35年の9月末に、砂野副社長に呼ばれて、「尼崎の医者の娘さんで・・・」という結婚の紹介話があって、 その場は「いい加減な返事」でごまかしたのだが、『結婚』ということを考え始めたのはこの時からだと思う。
そして、翌月の10月末には、私が肺結核で三田の療養所に入院してしまうのである。ちょうど1年余りの入院期間だったのだが、その間手紙のやり取りもあったし、見舞いにも来てくれたりしていたのだが、 その時に手紙と一緒に送ってくれた写真である。
結構長かったお付き合いなのだが、その期間中にある彼女の写真はこの2枚だけで、ほかには1枚の写真もないのである。
この1年間の療養期間のお陰で肺結核の空洞も消えたし、 その後の人生で、健康的な不安がなくなったので、 積極的に「結婚を考える」ようになれた有意義な1年だったのだと思っている。
★ そして、退院後は新しくスタートした『単車営業課』に異動になって、 新しい二輪事業の最初の営業担当として復職したのである。 これまでが療養生活を含めての『私の新入社員時代』かなと思っていて、 ちょうど5年間なのである。
そして、その1年後の昭和37年12月に結婚することになったのだが、 この6年間が私の青春時代だったのかなと思っていて、 今でも『いい出会い』だったなと思っているのである。
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