★ 1975年10月に10年間の国内出向から川重企画室に異動たのだが、 1976年11月には、市場開発プロジェクト室に移り、 東南アジアのCKDを担当、タイ市場など担当していたのだが、 1977年頃にアメリカ市場でハーレーが日本4社に対して『ダンピング訴訟』を起こしたのである。 この『ハーレーのダンピング訴訟』は、 後川崎重工の社長になる私より一期下の田崎雅元さんが担当していた。
アメリカ市場で日本車は安売りなどはしていないのだが、 アメリカのダンピングはアメリカは世界一の経済大国だということで、 『アメリカの経費率以上は認めない』という規則なのである。
当時国内市場で『販売会社』があったのはカワサキだけだったものだから、その『販社の経費率』のためにカワサキだけがダンピングに引っかかるのである。 そのために『カワサキオートバイ販売の経費率』を小さくしなければならないのだが、 当時は川崎重工の3社合併の後だったこともあり、 『カワ販の社長』はかっての『川崎航空機の取締役』だった方がされていて、 そんな関係もあってその本社機構も役員陣も非常に大きかったのである。
その経費率を下げるためには、具体的には社長以下の人事を刷新しなければならぬことは解っているのだが、 それを具体的にどうするのか? というのがその対策だったのである。
この対策案は『カワ販のTOP人事の刷新』なので、 『カワ販』にいた古谷にやらすのは気の毒だと気を遣って頂いて、 私は横から見ていたのだが 具体案がなかなか上手く纏まらないのである。
『カワ販』を無くして『営業研究部』にするというような案なのだが、
当時の『カワ販』はメグロ・メイハツの人や、 カワ販独自の採用者などもいて非常に複雑で『営業研究部』では、 その人たちの具体的処置などが上手くいかなくて、困り果てていたのである。
★ そんな状況だったのだが、1978年9月に塚本事業本部長から私に、 突然『その対策案を創るように指示』があり、 約1ヶ月ほど掛って、カワ販は残すが『本社を10人ほどにして』 形の上で『本社機能』だけを残し 具体的には川重営業部からコントロールするという案を創ったのだが、 本社財務本部もその案を認めて、 それで実行されることになったのである。
この時の本社財務本部長は、私が企画にいた時の堀川企画室長がされていて、 その案を本社に説明に行った時にも、そんなに詳しく聞くわけでもなく、『古谷くんが1ヶ月も掛って創った案なら、それに乗りましょう』と言って頂いたのである。
その最終案を髙橋鐵郎さんが当時の大西専務に説明に行かれたのだが、 その時大西さんから『実際には誰がやるのか?』という質問があり、 『古谷がやります』と答えたら『それを常務にせよ』と言われて、 いきなり私は川重課長から『新カワ販の常務』という職位になったのである。 今まではかっての川航の取締役が担当されていた『国内市場経営』を いきなり『常務取締役』として担当するということになって、 その社長は塚本事業本部長が兼務されたのである。
★そんな経緯で、1978年1月からは再び国内市場を担当することになり、 形の上では川重からの兼務ではあったが、実質は『カワ販への移籍』で 『新カワ販常務』として『カワ販グループ』を統括することになったのである。 当時の国内カワ販グループは地方販社を含めて『総勢500名』の陣容で、 今まで元川崎航空機取締役が担当されていた国内経営を47歳の私が担当することとなったのだが、これは本当に大役だったのである。
この経緯をみても『私は非常にツイていて』 別に望んだ訳ではないのだが、こんな結果になったのである。
さらにツキは続いて、 1年目の1978年春には『400FX』が発売されて、 これが国内では『空前のヒット商品』となり、売れ続けたのである。
前述したような経緯で『私を常務にされた』大西専務は、 内心『そんな若いのに任して、ダイジョブか?』と思われたのだろう。
私は毎月本社の大西専務に『カワ販の経営状況の報告』に伺っていたのである。 それが『400FXの大ヒット』で、どんどん業績もよくなり、 当時10億近くあった累損も『2年間で消去』されてしまうのである。
そんな結果を見て、大西専務も不思議に思われたのだろう。 『君らは、最初からこんなことになると解っていたのか?』という質問があったのだが、 勿論、そんなことは全く解っていたわけでもなく、 直前までは『東南アジアのCKD』を担当していたので、 400FXが出ることさえ知らなかったのである。
ひとえに『ツキ』だと思っているのだが、 当時は、カワサキの事業本部はアメリカ市場が赤字続きで、 ヨーロッパももう一つで、単車事業本部全体としては悪い時期でもあったのだが、 川重本社財務部辺りでは『カワ販や私への信頼』は抜群によかったのである。
私にとっては『初めてのグループTOPとしての経営経験』だったのだが、 結果がよかったのでその後の自信に繋がったのは間違いないと思っている。 と同時に、結果がいいと『どんどん信用は厚くなる』のである。
企画室への川重復帰以降、東南アジアCKD 事業とこの新カワ販の成功で、 特に川重本社部門からの信頼がその後の私の仕事をやりやすくしてくれたのは間違いないのである。
そして、続いて事業本部の経営というか、世界の販社を統括するという 大きな仕事がその次に転がり込んでくるのである。 これは次回に。
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