★ 10年間の国内販売会社の出向を終えて、 1970年10月に、川重発動機事業本部企画室課長に復職した。
企画室の中の企画班的な中枢の部門で、5人ほどの部下がいて、その部下たちは東大出や優秀大学卒のエリートたちで、10年の出向期間には、東北代理店や販売店では中学卒の従業員とばかり付き合ってきたので、何となく不思議に思ったりした。そんな学歴などには関係なく『二輪の仕事は誰でも出来る』のがいいなと思うのである。
中長期計画など担当してたので事業本部長に直接報告する機会も多かったのだが、当時の塚本本部長は就職の面接で、第一声『君は成績悪いね』と言われた塚本さんだったのだが、この頃はそのこと覚えておられたのだろうか?その時私は『成績は悪いかも知れませんが、会社の仕事など絶対にほかの人に負けたりはしません。』と答えているのである。
企画室時代以降、塚本さんには結構重用して頂いたのである。
★ 当時の事業本部は本社では吉田専務が担当されていて、 事業本部にお越しになることも多かったのだが、 一番大きなプロジェクトとして『CMCプロジェクト』なるものが展開されていた。『CMC』とはコンパクト・モーターサイクル・プロジェクトの略でこれは製造部が担当して、膨大な最新の製造設備投資をして、『小型車』を大量に安価に生産しようというもので、 吉田専務が甚くこのプロジェクトにご熱心だったのである。
ホンダのロードパルが世に出て、50ccの大量販売真っ盛りの時代だったのである。
私は『コレはダメだと』思った。 そんなバイクを幾ら安く造っても、それを売る販売網などどこにもないし、 『成功するはずがない』とは思ったが『ダメだ』とは言えないので、 『搦め手』からこんな提言をしたのが、 当時始まったばかりの東南アジアへの『CKDビジネス』だったのである。
★そこで『小型車の考察』というテーマで、東南アジアのCKDビジネスを取り上げ まずその『市場調査を行うべし』という提言を行ったのである。 当時の『CKDビジネス』は未だスタートしたばかりで 各国は『生産機種』や『担当人員の入国』などに数の規制があって、 後発のカワサキにとっても『競争条件の緩和』のようないい環境だったのである。
そんなことですぐ承認されて、 1971年5月には髙橋鐵郎さんを団長とするこんなメンバーでの『市場調査団』による市場調査を 台湾・タイ・インドネシヤ・イラン・マレーシヤ・フィリッピンというルートで、 約1ヶ月間に亘って行いその報告を纏めたら、即刻承認され、 新しい組織を創ることが検討されたのである。
★ その年の11月には、新組織『市場開発プロジェクト室』が出来て 髙橋鐵郎さんが技術本部長兼務で室長に就任されるのだが、 私もその統括マネージャーとして異動することになるのである。
『企画室』という『いい組織』にいたのはたった1年で、 自ら新組織に異動したようなもので、 周囲では『惜しいな』と言ってくれる人もいたのだが、 私自身はそんなことには一切関心はなかったのである。
★ 市場開発プロジェクト室では、 タイ・インドネシア・イランの3か国を重点市場とし、 それぞれ担当者を置いたのだが、 その中でも中枢的な市場であったタイを、私は兼務することとなったのである。
入社以来初めての海外市場担当で、英語もいるし大変だったのだが、『タイ市場』はマー・ファミリーという華僑のグループで、 具体的にはオーナーの息子たち二人が担当だったのだが、 いろいろ細かいことを言ってなかなか纏まらないのである。
出張の最後の日のミーテングでもいろいろ言うので、 私は黒板に漢字で『正直・誠実・勤勉・信頼・互譲・協力』と書いたのである。
これでオーナーのマーさんがカワサキの提案に『YES』と言ってくれたのである。 息子たちは知らぬが、マーさんは漢字が読めたのである。
これは最初に入社した川崎航空機工業の『社是と執務態度』で、 私は今も人生の信条としているのである。
★ そんなことでスタートした『タイ・プロジェクト』なのだが、 カワサキのクルマは田舎ではよく売れたのだが、首都バンコックでは全然売れないのである、 『なぜ?』と聞いたら、 バンコクでは兎に角『メーター上だけでもいいから120キロ走る速いクルマ』なら売れるというのである。
私自身は技術には詳しくないので、商品企画などにタッチしたことは全くなかったのだが、 これくらい単純な話なら解るので、当時の技術本部長の大槻幸雄さんに そのままのことでお願いしたのだが『なかなか首を縦に振って』頂けないのである。 大槻さんとは親しい中なので粘っていたら、 横にいた松本博之さんが『私がやりましょう』と引き受けてくれたのである。
その車がこの『カワサキ最高のヒット商品GTO』なのである。
そのメーターは160キロまで表示されていて、 タイ・インドネシアなどで、『何台売れたか解らない』のだが 兎に角、カワサキの車種の中で『飛び抜けた台数』が出たのである。
なぜ『台数がわからないのか?』 これはCKD なので、カワサキの明石工場では『部品出荷』となるので、 その個数の記録しか残らないので、 調べ上げたら解るのだろうが、台数としては残っていないのである。
★こんな想い出のある『東南アジアCKDプロジェクト』だったのだが、イランは政治体制の変化でダメになってしまったが、インドネシアも成功して、カワサキの新しいビジネスCKDはその後、幾多の変遷があって、今ではタイからバイクを輸入しているような状況のようである。
ひょんなことから、始まった東南アジアプロジェクトではあったが、 本体の『CMCプロジェクト』はその後数年は存在したのだが、 そのうち消えてなくなってしまったのである。
たった2年程の短い期間ではあったが、 私にとっては『想い出多いいい2年間』だったのである。
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