★この開発市場プロジェクト室という新しい職制は、 東南アジアの市場調査に始まってのスタートで、 自らが企画し、自らがその渦中の中にいたようなものだったが、 カワサキにとっては合弁事業の推進など全く『新しい事業』で、 その段階までは、どちらかというと『私の得意分野』だったのである。
タイに於ける合弁会社 Glory Kawasaki の設立までは非常に順調だったし、私の出番も多かったのだが、 さて『CKDビジネス』を推進するとなると、これはなかなかムツカシイのである。
『タイ市場にバイクを売る』ということは間違いないのだがそのためには『タイでバイクの部品の製造』をしなければならないのである。新しい工場で『何を造るのか』を決めなくてはならないのである。これは私の最も苦手とする分野で、そんな細部のことをきっちりと決めるのは苦手だし、何よりもバイクの部品について、詳細には何も解っていないのである。
私自身は合弁会社の設立には色濃く関与したが、それ以降は殆ど何もやっていないのである。
★前回ご紹介をした、タイ市場の担当だった小池博信さんの自分史の中に こんな一節がある。
このように書かれているが、正直このことは『覚えていない』のである。ただ、『車種開発関係を除いては現地で解決されたい』と返事してるのだが、その車種開発については、間違いなく私は動いているのである。
長い二輪事業の担当ではあったが、『新機種開発』に関しては殆ど関係していない。バイクの技術的な部分がよく解らかったし自信がなかったからである。ただ『私自身』が単身当時の技術本部にお願いに行った機種が一機種だけある。それで世の出た車が、あのGTOなのである。
★ 当時のタイ市場では、カワサキの販売網は農村地域に限られていて、 首都バンコックでカワサキを見ることはムツカシイような状況であった。 まだタイ市場を調査中の頃のことだが、なぜ『バンコックで売れないのか?』と 販売担当のチャンさんに聞いた時の話がこうだった。
それはモペットを持っていないこと、100ccのバイクにはヒット商品になるような『いい商品』がないというのである。
『では、どんなバイクなら売れるのか?」その答えは、『兎に角速い車、メータだけでも120キロ出るバイクがあれば』というのである。
この話は私のアタマの中に、明確に残っていて、その後合弁会社が設立された後、当時の技術本部長の大槻幸雄さんに『110㏄ぐらいで、兎に角速く走るクルマを』とその開発をお願いに行ったのである。
大槻さんはなかなか『うん』と言って頂けなかったのだが、 私が粘るものだから、ヨコにいた松本博之さんが 『私がやりましょう』とその開発を引き受けてくれたのである。
そしてこのような話に続いていくのである。 タイ市場向けというかバンコックで売れる 新機種開発なのである。
ホントに空前のヒット商品になったのだが、 発売されたのは1979年なのである。 カワサキの二輪事業の長い歴史の中で 飛び抜けた台数が売れたのが『GTO』なのである。 だが、CKD市場向けなので明石工場では『部品出荷』だから 台数の記録が残っていないのである。
その時には既に私は国内市場担当に異動していたので、 バンコクの町を走るGTO は見ていないのだが、 タイの首都バンコックがGTOで溢れたそうである。 私がホントに『たった1回だけ関わった』新車開発なのだが、 松本博之さんがいいエンジンを造ってくれたし、 外観デザインなどについては、タイ市場の人たちが熱心に関わってくれたのである。
小池博信さんは『自分史』の中でこのように書いているし、 その『自分史』の 標題も『豪華川崎GTO青春物語』としているのである。
この中の記述にもあるが、販売台数も倍増以上になっているし、 ひょっとしたらインドネシアはタイ市場以上に売れたかも知れないのである。
私にとっても記念すべきヒット商品で、 よくあの時松本博之さん、引き受けてくれたと感謝である。
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