★『人生で一番頑張った時代』の『その3』は大庭浩本部長の3年間である。 それは1983年7月から始まった。
私の現役生活で『私の意見』を一番聞いて頂いた上司は大庭さんである。 とそんなことを言うと『ホントか?』と信じられない方がおられるかも知れない。
単車に来られる前にも幾つもの事業部の経営再建を手掛けられていて,
『再建屋』で通っていたし、『無茶苦茶怖い』と専らの噂だったのである。 当時の単車事業部の経営再建にも単身乗り込んでこられたのである。 私は当時の企画部門担当で、『大庭さんの番頭役』を3年間務めたのだが、 この時期の単車事業部再建は、明石の事業本部に問題があったのではなくて、アメリカのKMCをはじめ海外販社の赤字経営が問題だったのである。
大庭さんがそれまで経験された事業部再建はみんな日本の事業本部の再建で、単純に言えばその事業本部の『期間損益の黒字化によって再建』が出来るのだが、販売会社の場合は『期間損益』は勿論、その有している『累損消去』までできないと真の再建とは言えないのである。
当時のKMCには100億円近い累損があって、この消去は大変な難題ではあったのだが、大庭さんも『そんなことは聞いていない』と仰るのだが、『それを目標にやりましょう』と大庭さんとのお付き合いは始まったのである。 大庭さんは、確かに『怖い』のだが、物ともせずに意見を言うと『任して頂ける』ところがあって、みんなそこまでは『言うことが出来ない』のだと思うが、当時の単車は独特な雰囲気で、アメリカの田崎さんも、日本の私も結構自説は曲げずに、敢えて『反対意見』も申し上げたのである。
★ 今はカワサキの代名詞になっているような『Ninja』だが、 『GPZ900』が世に出た当時、アメリカ市場が提案した『Ninja』というネーミングは、明石の技術本部は反対で、所謂『忍者』から来る黒装束のイメージは暗いというのである。
そんな技術本部の意見を背負って、『Ninja』を主張するアメリカ側への説得を大庭さんが試みられたのだが、 田崎さんは、頑強に抵抗して『YES』と言わないのである。
事業部サイドの『Ninja=忍者』のイメージは暗いとの主張に対して、 田崎さんは、アメリカでは『ゼロゼロセブンのイメージ』だと言って頑張り通して、 とうとうアメリカだけが『Ninja』のネーミングでスタートすることになったのである。
この写真のように当初はヨーロッパなどは『GPZ900』という表示で のスタートだったが、
アメリカだけが『Ninja』というネーミングでスタートすることになったのだが、 この1件は『アメリカ側の主張』が正解だったようで、 今では『Ninja』はカワサキの代名詞のようにになってしまったのである。
大庭さんは『本音でズケズケものを言う』単車の雰囲気を気に入られたようで、7月に来られて3ヶ月の9月には 『単車は意外に確りしている』と仰るようになるのである。
★いろんなことがあったが、この当時を一言で言うと 『運がよかった・ツイていた』と言えるのだろう。
確かにNInja などいい商品も出たのだが、 何よりも財務本部が数百億円の資金援助をしてくれたり、 全社挙げての応援で、その旗を振られたのは 山田・大西両副社長なのである。
当時、リンカーン工場の操業度が不足してその対策のために、 年間8000台程度であったじJet Ski を2万台も造りだめしたら、 突然、それが完売するということになったりしたのである。
『赤字会社が新社屋など?』と反対もあったのだが、 当時の大西副社長が熱心に賛成して頂いて実現することになるのである。
1986年、大庭本部長の3年目に完成して
長谷川・大庭・田崎さんの3人での『鏡割り』なのだが、 この時、田崎さんは未だ川重部長の頃である。
大庭さんですら、川重社長は未だ決まっていない時期なのである。
これはずっと後に、私がアメリカに行った時に撮ってきた KMC社屋の写真だが、 ホントに懐かしい、いろんな想い出いっぱいの社屋なのである。
★ あれだけ大変だった『カワサキの二輪事業の再建』は 大庭浩本部長が見事達成されて、 川重本社に副社長で戻られ、あとを 髙橋鐵郎常務が本部長を引き継がれることになったのである。
私自身もそのど真ん中にいて、いろんなことのあった期間だが、 今思っても『よく頑張ったな』と思うのである。
★ この時期、私は50歳になったばかりの頃である。 息子は大学を卒業してサッカーで全日空に入社したし、 娘も関大に入学出来て、何とか一息ついた時期である。
アメリカのダンピング問題からのスタートだが、 よくまあ、いろいろと続いたものである。
1983年に『GP レース撤退』とあるが この決定は『私と田崎さん』との相談で『GPレース中止』を決断しているのである。 この時は、そうせざるを得ないほど事業本部の経営は追い詰められていたと言っていい。 当時のカワサキのGPレースは、非常に強かった時代だから残念だったのだが、すべてを止めると再開が大変なので、 平井稔男さんに数千万円の予算を渡して、 この時『Team Green』が日本でもスタートすることになるのである。
『運勢来年2月まで』と書いているが、そんな運勢だったのである。 ホントに運がいい期間だったと思う。
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