★ 先日来、昔の日記を読み返している。
忘れてしまていることも多いのだが、川崎航空機に入社した当時のことは 私にとっても『懐かしいことが多い』のである。
川崎航空機工業には、昭和32年(1957)4月1日に入社なのだが、 その4月1日の日記にはこんなことを書いている。
『・・・四本常務は、「この会社は学閥もない実力のある者は必ず幹部になれる」と仰る。それが事実ならば大いによろしい。「実力があれば」と言われれば聊か自信はある。・・・』
結構な背伸びだが、そんな風に思っていたのだろう。 そして4月15日に業務部財産課への配属が決まって『配属は業務部財産課と決まる。先輩たちの話によると面白くないところらしい。・・・』などと日記には書いている。 ところが、財産課での3年間は今思っても結構オモシロかったし、オモシロかっただけではなくて『大きな実績』も残せたのである。
★当時の川崎航空機は『軍事産業だった』ということで戦後の中断の時期があって、やっと昭和27年から再開された会社で、財産課の資料なども未だ確りとは整ってはいないそんな状態の会社であった。
財産課は所謂会社の財産管理をやるところで、財産物件の減価償却計算作業を、当時の手動のタイガー計算機を回しながらやったりするのだが、私は車輌運搬具と工具器具備品の担当となったのである。
財産物件とは「取得価格1万円以上」のものを言うのだが、当時の川航は新事業のジェットエンジン部門などは、「取得価格300円以上」のものを財産物件に計上していたので、机や椅子は兎も角、極端に言えば『バケツやすだれ』などまで財産物件になっていて、圧倒的に件数の多い『工具器具備品』の償却計算は時間が掛かって大変だったのである。
そんな作業を2年間はやってたのだが、なんとか『償却計算の機械化』などが出来ないかと3年目には思い出して、当時米国空軍のジェットエンジンのオーバーホールをやっていたJET部門には既にIBMがあったので、そんなIBMを使っての『償却計算の機械化』に、昭和34年(1959)10月12日にスタートしているのである。そんな日付まで日記があるから解るのである。 ジェットエンジン部門以外では、どこもIBMなど使っていなかった時代で、『やるならちゃんとやろう』と当時の本社も岐阜製作所も動かして『全社統一の償却計算システム』をちょうど1年間掛かって、やり遂げているのである。
勿論、民需では全社でも初めてのことだったし、新人社員の仕事としてはべらぼうに『大きな仕事』で、入社3年目の新人が本社も岐阜製作所も動かしてこのプロジェクトが進めることが出来たのは、一般社員はIBMのことなど全くご存じないので、ちょっと勉強した新人社員の方が『リードできる』知識を持っていたのである。
日本にIBMが入ってきたのは東京オリンピック以降などと言われていて、その10年も前の時代、今から言えば60年も前のことなのである。
★これが当時のIBMの「マスターカード」なのである。まだ「パンチカードシステム」の時代で、所属コード・物件名などの項目を限られた桁数内に入れなければならないので、『物件名のコード化』だけでも大変だし、それを本社も、岐阜製作所も含めて統一するのは、これはホントに大仕事なのだが、それが出来たのは、今思うと我ながら頑張ったと思うのである。
こんな当時のマスターカードが日記に挟まれていた。
これは出来上がったマスターカードだが、この様式も、物件名もすべての項目を創り上げての『システム構築』だから、完成するまで1年掛かったし、IBM室の久森係員と二人で創り上げたもので、財産課では私一人で担当していたのである。
★この新入社員の3年間に、私はこれ以外にも車輌運搬具の自転車の管理方式や、それまでは木製で壊れることの多かった回転椅子を当時は珍しかった『スチール製のネコスの椅子』に変えたりしている。
この『ネコスの椅子』は当時の人たちはみんな早く欲しがったのだが、その分配権を入社2年目の私が持っていたので、あちこちから『早く欲しい』と頼まれたりして、新人ながら結構名前も売れたりしたのである。
当時『日本ジェット』に出向されていた大槻幸雄さんと井出哲也さんがが復職されて、お二人のそ新しい机と椅子を私が都合したのだが、このお二人とは後、レース関係でお世話になったのである。大槻さんはそんなことは解っておられないと思う。私が『大槻幸雄』という名前に初めて出会ったのは実はこの時なのである。
この『償却計算の機械化』が出来たお蔭で、何人もの人が計算機を回してやっていた作業は不要になって、財産課の人員は要らなくなったのである。
そんなこともあって、私は昭和35年(1960)から新しい事業としてスタートした『単車事業』の営業に異動することになるのである。
★ そんな私の入社当時なのだが、新しく出来た『単車営業』もアイツなら大丈夫だろうと思われたのだと思うし、 昭和39年(1964)に本格的に単車事業本部がスタートし初めて広告宣伝課が出来て、1億2000万円の広告宣伝費を本社が開発費で3年間出してくれることになるのだが、その広告宣伝課を係長にもなってもいない私が担当することになるのである。
性格なのか? 新しいことでも、大きなことでも、不思議に物怖じなどしないのだが、1億2000万円の広告予算を使い切るのがなかなか大変で、当時新しくスタートした『レース関連』のライダー契約や運営費をこの広告宣伝費で賄っていたのである。
私の年収が40万円という時代に、20代の若手社員が1億2000万円という予算を自由に使えるという世にも不思議な経験をさせても貰ったのである。
★25歳で入社し約10年間の新入社員時代にこんな経験をさせて貰えたのは非常に幸運だったと思う。 その後も『新しいこと』『大変なこと』ばかりを担当させられて、最初のIBMの償却計算システムがそうだったように、私の場合はいつの時代も『上からの具体的な指示』など全くなくて、与えられた『命題』を解決するために、自由に好きなように動けた『現役生活』だったのである。
それ故に現役時代の会社生活は『結構楽しかった』のである。
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